ふと目を覚ますと、私は妙に耳に馴染む、けれど聞きなれない気もする言葉を話す大人達に囲まれてよしよしと可愛がられていた。
『あれ、起きてもうたん?どしたの、お腹でも空いたん?』
そう優しく撫でられながら呼ばれる名前に覚えなんて無いのに、それは確かに私のものだと分かった。にこにこと笑う両親も、隣で眠る片割れも、小さく動く短い手足も。全部全部、私のものだった。
私は。
よしよしと柔らかな手で私を撫でるこの女の人はお母さん。
その人の隣でそれを微笑ましそうに眺めている男の人はお父さん。
隣で安らかな寝息を立てているのは双子の弟。
記憶に残っている、昨日一緒に遊んだ男の子は同い年の従兄弟。
周りに見える積み木の玩具や絵本は、私と弟共有の遊び道具。
ここは、私の家。
全て分かる。何も考えなくても、脳に特別な翻訳機能でもついているみたいにすんなり理解できる。でも、理解できることが、理解できない。
意味が分からなくて、とにかく不安で、私は泣きつかれて眠るまで大声で泣き喚いた。その間、お母さんは「ああもう、どないしたん?」と嬉しそうに困りながら、ただただ、それをあやしていた。
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眠りから覚めるまで、私はもうそろそろ19歳になるという大学1年生だった。
第一志望の大学に無事合格して、高校よりもずっと長い講義の時間にも慣れてきたし、サークルの先輩とも段々打ち解けてきて、まさに大学生活もこれからって時期で。
1限ダルイなぁ。でも今日は4限終わりからサークルだ、それまでなんとか頑張ろう。
そんなことを思いながら駅から大学へ向かうバスに乗って吊り革に掴まってゆらゆらと揺られていたのが最後の日の記憶。
ガタガタと揺れるバスに何かが勢いよく衝突して、ガシャンとか、グシャとか、そんな感じの鋭い大きな音と共にバス全体に衝撃が走った。その途端掴んでいた吊り革は私の手を容易く振り払い、私は重力に従ってそのまま前にふっ飛んでいた。
そして頭に尋常じゃない衝撃を感じると同時に視界が暗くなって、混乱を極める車内のその後を知らないままに私は気を失った。最後まで何が起きたのかよく分からなかったけど、とにかく色んなところが痛いというか、酷く熱かったことだけは、覚えている。
次に目を覚ました時には、私は既に“忍足”だった。
最初は本当に混乱どころの話じゃなくって、不安に駆られるまま泣いてばかりいた。でも人間そんなに泣いてばかりいられるものじゃなくらしく、暫く泣き暮らしていたらそのうち涙も出なくなってしまったのだ。
そして泣く以外に何をすればいいのかも分からなくてぼんやりしているうちに、次第にこの状況に慣れてきてしまっている自分に気がついた。人間の適応能力って、恐ろしいほど優秀。それを嫌というほど思い知った。
とにかく、よく分からないけど私は以前の私じゃないってことだけは確からしい。所謂、生まれ変わりってやつだと思う。これって前世の記憶があるってことなんだろうか。記憶っていうより、脳をそのまま受け継いでる感じだけど。
そんなこんなで目を覚ました時は3歳だった私は、何気なく生きているうちにそろそろ2度目の七五三のお祝いをしようか、なんて話が出る歳になっていた。幸い物心がつくまでに、つまり『私』が“忍足”として目覚めるまでに蓄えたここでの知識も生きているらしく、家族や周囲の人間などの現状把握に必死になる必要もなく穏やかに生きている。
ただ、以前の両親や友達なんかのことをあまり思い出したりしない自分が不思議だった。好きだったし、大切だったはずなのに、家族と聞いて今思い浮かぶのはこの家の両親や弟の顔だ。私の知らない3年間で、“”はしっかりと絆をつくっていたんだろうか。凄く、不思議な感覚だった。
「、なにしてん?」
久しぶりに昔を思い返しながら子供部屋で本を読んでいると、ガチャリとドアを開けて弟の侑士が顔を出した。弟と言っても双子なので、戸籍上先に生まれたらしい私の方が姉ということになっているだけなんだけど。
「ほんよんでるの。ゆうしもよむ?」
ドアノブに手を掛けたまま佇んでいる侑士にそう尋ねると、ん、とひとつ頷いて私の隣に移動してきた。小さな手足でとてとてと歩く様が可愛い。手足が小さいのは私も同じだけど。
まだ読み始めたばかりで数枚しか捲っていなかった本のページをパラパラと戻し、最初のページを開く。これなに?と聞かれたので一度本を閉じて表紙を見せると、侑士は少し困ったように眉を寄せた。
「よめへん。いすかんだると……なに?」
「いすかんだるとでんせつのていえん、ってよむの。すぺいん……がいこくのひとがかいたほん」
「またそんなんよんどるん?おれみたいにあたまようないし、わかるやろか……」
不安げに表情を曇らせる侑士に「ほかのにしようか?」と言うと、ううん、と首を横に振って他の絵本へと伸ばした手を止められる。これ、200ページ近くあるんだけどいいのかな?児童書とはいえ5歳児が読むようなもんじゃないと思うし。
本当にいいの?ともう一度問えば侑士は力強く頷いた。
「はこれよみたいんやろ?せやったらおれもよむ」
これでええ。いや、これがええわ。
ちょっと意地になったように少し唇を突き出しながらそう言って、幼児が読むには小さな字の羅列を一生懸命読み始める。度々眉を顰めて少し止まっては「これ、なんてよむん?」と私に尋ね、その都度「おおきに」と笑う。
侑士のこういう妙なことで意地になるところは見ていて微笑ましい。だからこそ謙君とよく言い合いになっちゃうんだろうけど、その言い合いも小さい子って感じですごく可愛いと思う。
そんな風に考える辺り、私にはそういう可愛さがまったくもって欠けている。まあ頭の方が幼児じゃないんだから仕方ないんだけど。
侑士がページの最後まで目をやったことを確認しながら1ページ1ページ味わう様に読み進め、暫くの間そうしてゆっくりと本を読む。しかし、ふと気が付けば隣からは安らかな寝息が聞こえるようになっていた。
「ゆうし、ねるならソファーかざぶとんがあるとこにし」
「ん……ええねん。ここでえぇ……」
もごもごとくぐもった眠たそうな声を出しながら、侑士はきゅ、と丸く縮こまる。どうやら動く気はないらしい。その様子に仕方がない、と軽く溜め息を吐きつつ本に栞を挟み立ち上がった。
「?」
どこいくん?と薄っすらと目を開いて立ち上がった私を見上げてくる侑士にどこもいかないってば、と言いながら部屋の隅に移動する。置いてある籠からよいしょとタオルケットを取り出して侑士の元に戻ると、それをばさりと侑士に被せて自分もその中に潜り込んだ。
「あとでからだいたくなってもしらないから」
「ええって、べつに」
大きなタオルケットは、5歳児を二人包んだ程度ではまだまだ余裕がある。部屋の中央に裾の広い小さな山を形成して、私達は眠りについた。
向き合いながらまどろむタオルケットの中は、酷く幸せな空気に満ちている。
私は、忍足だ。