受け入れましょう、潔く
その衝撃の事実に気がついたのは、忘れもしない5歳の夏。切っ掛けはなんてことない母さんと姉さんの会話だった。
私達より10歳年上である由美子姉さんは、高校受験を控えた中学3年生。進路については色々と思うところがあるらしく、その頃には高校のことで母さんに相談しているところをよく見るようになっていた。姉さんも優秀な人だし、色々選択肢が多いんだろう、多分。
その日もお茶をしながら色々と話し込んでいる姉さんと母さんの話題はやっぱり受験のことで、会話に参加できない私や周助達は邪魔にならないようその近くで本を読んだりボールで遊んだりしていた。
「どうしよう……外部、受けてみようかな」
母さんの淹れたアイスティーを傾けながら、姉さんが溜め息混じりに呟く。外部ってことは由美姉の学校って中高一貫なんだ、なんて今更なことを思ってちょっと姉さんの方に視線を向けると、「おねえちゃん、はやくー」と裕太が袖を引っ張った。ボールを持ったまま余所見をしている私が不満だったらしい。
わかったわかった、と裕太に強請られるままに父さんが買ってきてた背の低い玩具のバスケットゴールの前に立ち、体勢を整えて狙いを定める。
「そうねぇ……由美子がそうしたいなら、そうした方がいいんじゃないかしら。青春学園も良い学校だと思うけど、他にも良い学校は沢山あるものね」
時間を掛けて自分に一番合った学校を決めるといいわ、という母さんの言葉と共に、ボールが私の手から離れる。
一拍の後に私の放ったボールはパサッとネットを揺らし、裕太がキャッキャと喜びの声を上げた。周助も笑顔で拍手を送ってくれたが、私はシュートする時の体勢のままピタリと動きを止めたまま。そのままの格好で、ただ母の言葉を反芻していた。
「ちゃん?」
どうかしたの?と覗き込んでくる周助にどうにか「ああ、うん、なんでもないよ」なんて返して、上げっぱなしだった腕を漸く下ろす。次第にぐるぐるしてきた思考で、もう一度よーく考えてみた。青春学園って、あれ、なんか聞いたことある気がするの、私の気のせい?
青春学園。字面だけで言えば略称が東京の某名門校と同じになる、架空の学校だ。
そう、架空。架空の学校、であるはずだった。少なくとも私にとっては。だってそんな恥ずかしい名前の学校は、生まれ変わる前に読んでいた少年漫画の中にしかないはず。そんな学校名が母の口から出るなんて、そんな馬鹿な。
でも悲しいかな、私は「きっと聞き間違いでしょ」なんて笑い飛ばす前にその単語に関連するものを見つけてしまっていた。
歳の離れた姉、由美子。天才と呼ばれる周助という少年。その一つ下の弟、裕太。そんな姉弟達が持つ、不二という苗字。
それまでは全く気付いていなかったのに、“青春学園”という一つの単語から思い出された漫画によって、私を取り巻く全てが頭の中でどんどん符合していく。そしてそれらが暗示する事柄は1つ、『この世界が漫画の世界である』ということだった。
いやいや、まさか。そんなまさか。あるわけないじゃんそんなこと。
そう思ってこっそり母の携帯で周辺の地名を調べてみたりしても、出てくるのは“青春台”だの“不動峰”だのといった名前の数々。それでも認めきれず他にも色々と調べてみるも、出てくる事実はどれも否定したかったその考えを逆に裏付けてしまうようなものばかりだった。
いい。もういい。もう認めるしかない。
ええそうです、ここ、『テニスの王子様』の世界です!!
観念してそう認めてしまってからは、もう「まさか」とか「そんなはずは」とかそんなことは思わなかった。だって考えてみれば私、既に生まれ変わりなんて到底信じられないような体験しちゃってるんだからもう何が起こっても信じられないことなんてないだろって感じだし。でも、でも一つだけ自分に言いたい。逆に、何で今まで気付かずにいられたんだよ私!!
いや、そりゃあさ!生まれ変わってすっごい混乱してて、一応その事実を受け入れてからも幼児の身体とか急変した環境とかに慣れるのに必死で他のことには頭回んなかったと思うよ!?でもこのタイミングで“青春学園”って名前聞いて気付くなら、もうちょい早く”青春台”とかそういう地名聞いて気付けたはずじゃないの!!?
別にさ、早くに気付いたからどうだってことはないし、気付くのが早かろうが遅かろうが構わないんだけど、なんっか自分の鈍さが腑に落ちないっていうか!だって、不二って苗字の家に生まれて、糸目で美少年な“周助”っていう弟がいて、弟は裕太で姉は由美子なんだよ!?そりゃ私一応社会人だったし普段の生活で漫画のことばっかり考えるような生活もしてなかったけど、でも結構好きな漫画だったじゃん、テニプリ!割と読み込んでたはずじゃん私!
あーもう腑に落ちない。私が今まで気付かずにいて急に状況把握したってだけの話なんだけど、何かドッキリ仕掛けられたような気分!勝手に「騙された!」とか思ってしまう!いや、誰にだよって感じだけど!
そんな風にして暫く混乱する頭を抱えてジタバタしていたわけだけど、いつまでもそんなことをしているわけにもいかないのでキリのいいところでふうっ、と大きく息を吐いて気持ちを落ち着ける。うん、もう十分混乱したよね、私。そろそろ冷静になっとこう。じゃないと私自身疲れるし。急に幼児になってた時も思ったけど、考えても解決するものでもないし。
とりあえず片付けよう、と悪足掻きのために引っ張りだしてきた色々な資料(電話帳とか、そういう類のやつ)を元あった場所に戻すことにして、本やら雑誌やらをまだまだ短い腕いっぱいに抱える。すると横からも同じような短い手が伸びてきて、私が抱えきれなかった残りの本を攫っていった。
「あ……ごめんね、しゅう。ありがと、おもくない?」
「うん、へいきだよ。……ちゃんこそ、へいき?」
「あ、うん、へいき」
そんなにおもくないから、と本を抱えたままひょいと立ち上がってみせれば「ううん、そうじゃなくって」と首を横に振られる。なら何のことだろう、と首を傾げると周助は気遣うように眉を寄せながら「なんだかちょっと、へんだったから」と零した。私が必死になって何かを調べ回っていたら流石に変だろう、と一応母さん達の目には入らないよう気を付けていたけど、周助には見られていたらしい。その隣に立つ裕太は、何だか分かってない顔してるけど。
「……うん。それも、へいき」
心配そうな顔で私を窺ってくる周助ににこりと笑って、だいじょうぶだよ、と告げる。
そう、大丈夫だ。急な展開にびっくりはしたけど、その事実が私の何を変えるわけでもない。私達の何を、変えられるわけじゃないんだから。
たとえ周助が私の知る漫画に出てくるキャラクターと同一人物であろうと、何も変わらない。私と周助が血を分けた姉弟であることも、私達が独りでなくなったあの日の出来事も、私の密かな誓いも。
自分でも確かめるようにうん、とひとつ頷いて笑みを深めれば、周助も安心したようにふわりと微笑む。それから周助は気を取り直したように本を抱え直すと、「じゃあ、かたづけちゃおうか」と踵を返した。
「ゆーたも!ゆーたももつー!」
「うん、じゃあゆうたはこっち、おねがいね」
周助と、それに纏わりつくようにしてきゃらきゃらと笑う裕太の背を見つめながらそっと目を閉じる。
ここが本当に漫画の世界であろうとなかろうと、今私が感じている幸福は、私の現実だ。