暖かな日の光に満ちた縁側に腰掛け、膝に乗せた本のページを指先でパラリと繰る。しばらくの間そうして本を読み進め、最後の一節まで読み終えたところで私はふう、と満ち足りた溜め息を吐き出した。紙面に広がる世界から現実へ戻ってくると、一気に集中がとける。面白かった。この本はすごく当たりだ。
読み終えた本を閉じようと手を動かした瞬間、風に運ばれてきた桜の欠片が本の上にはらりと落ちてきた。その薄桃色の花弁を指先で摘んで庭へ目をやれば、ぶわ、と一陣の風が吹き抜ける。思わずギュッと瞑ってしまった目を開き、室内を振り返ってみると沢山の花弁が吹き込んでいた。
後のことを考えて掃除が大変そうだな、なんて思う。でも、それ以上に花弁に彩られた和室は何だか風情があっていい。気分が良くなった私は抱えていた本を縁側に置くと、踏石の上に並べられた子供用のサンダルを引っ掛け、大きな桜の木が枝葉を広げる庭へと足を踏み出した。
日吉家は古き良き日本、という言葉が思い浮かぶような、純和風の平屋だ。父が師範を務めている古武術の道場も同じ敷地内にあるうえ、多くの日本芸能を嗜む祖母が華道や茶道を行うために造られた離れもあるので屋敷と言った方が通りがいいほど広い。庭も玉砂利が敷かれ燈籠や景石などが置かれた典型的な日本庭園で、立派な庭木もあるので今のような桜の季節や紅葉の時期には殊更風流になる。四季の移り変わりがとてもよく分かるこの庭が、私は大好きだった。きっと家族全員が気に入っているんだと思う。みんな、庭を見渡せるこの縁側にいるところをよく見かけるから。
低い身長のせいでさらに大きく見える満開の桜の木を見上げながら、綺麗、と心の中でしみじみと呟く。本当に、綺麗過ぎて眩しいくらい。何かに心動かされるこの感覚は、若に出会ってから知ったものだ。
心地好い春の陽気に誘われ、折角だから庭を散歩しようかな、と一歩足を踏み出すと同時に「おねえちゃん?」と背後から控えめに声を掛けられた。
「若……どうしたの?」
若は3歳の頃から父さんに古武術を習っている。私も多少習ってはいるが、女でしかもまだ幼い私はほんの手習い程度だ。でも若は一人息子ということで、5歳にして既に本格的に鍛えられ始めた。今はその稽古の時間なはず。現に、今の若は胴着姿だ。
休憩時間かな、と思い「お休み中?」と尋ねると、若はふるふると首を横に振った。
「きょうはここまで、って。おとうさんが」
「そうなの? 今日は早いんだね」
「なんだか、ようじがあるみたいです」
「……うん、そっか」
姉である私にも自然に敬語が使えるようになった若に、大きくなったんだなぁ、と感慨深くなる。日吉家の教育では『目上の者には敬語』が基本だ。それは、たとえ家族内のことであっても変わらない。流石に本当に幼い頃はそんなことはなかったが、古武術を習うようになってからはそれが徹底された。祖父はなかなかに厳しい人だし、父は普段そこまでではないものの道場に一歩足を踏み入れると師範として途端に厳しくなる人なので、こうしてスラスラと敬語で話せるようになるまで若は何度叱られたか知れない。初めのうちは叱られすぎて泣いてしまうことも多かった。
私は使えと言われれば敬語は普通に使えるが、「を見習いなさい」と姉である私と比べられてしまう若を見るのは忍びなくて偶にわざと敬語を使わずに喋ったりもしたものだ。私のような反則的な存在が比較対象では流石にあんまりだろう。
「おねえちゃんは、なにをしてたんですか?」
「本をよんでたの。でもよみおわったから、少しにわをさんぽしようかなって」
若も来る?と尋ねれば、今度はすぐさま首が縦に振られる。若は縁側から庭に降り、私の傍に駆け寄ると自然と手を繋いできた。その手を小さく握り返して、ゆっくりとした歩調で歩き始める。
「まんかいだね」
「はい、きれいです」
砂利の上に薄っすらと広がる薄桃色の絨毯を踏みしめながら、咲き誇る春の花に目をやってはにこりと微笑み合う。可愛い若。私の愛しい弟。こうして一緒に過ごせる時間が私にとってどんなに幸せか、きっと若は知らないだろう。知らなくたって全然構わないから、出来る限り長い間、こうして姉と一緒に時間を過ごしてくれる子でいてほしい。とはいえ思春期の男の子は色々と難しいものらしいから、それは叶わぬ望みなのかもしれないけれど。
心の中でひっそりと祈りながら、若の手を引いてぐるりと家の周りを一周する。そして離れの近くまで来ると「さん、若さん」と声をかけられた。パッと離れを振り返ると、開け放たれた障子の向こうに祖母がにこにこと微笑みながら座っている。
「二人でお散歩かしら?」
「はい。にわの花がまんかいで、すごくきれいだったので」
「そうねぇ、今が盛りだものね」
手を繋いだ私達を微笑ましそうに見つめていた目を庭の花々に向け、眩しそうに目を細める。すると祖母は「ああ、そうだわ」と呟いて、いそいそと部屋の奥へと戻っていった。どうしたんだろう、と思いながら待っていると、祖母は菓子を乗せた懐紙を手に戻ってきた。
「二人とも、和菓子が好きでしょう? 桜餅なのだけど、焼き桜だから小さい子でも喉に詰まったりしないと思うの」
ちょっと大きめだから二人で食べて頂戴ね、と可愛らしい色合いの和菓子を渡される。ありがとうございます、と二人一緒に頭を下げると、どういたしまして、という言葉と共に柔らかく頭を撫でられた。祖母に撫でられるたび、この優しい手を凄く好きだと感じる。同じように頭を撫でられている若も、ほっそりとした祖母の手に目を細めていた。
それから祖母に別れを告げて母屋へと戻ると、縁側に二人並んで腰掛ける。その間に桜餅の乗った懐紙を置き、添えられていた竹の菓子楊枝で桜餅を小さくいくつかに切り分けた。
「はい、若」
そのうちの一切れを楊枝に刺し、ひょいと若の口の前に持っていく。すると若はぱく、と素直に口を開けて薄桃色のそれを口に含んだ。なんだか、雛鳥にご飯をあげているような気分になる。
「おいしい?」
小さく咀嚼を繰り返す若にそう尋ねると、しっかりと口の中のものを嚥下した後に「おいしいです」と頬を緩めた。おねえちゃんも、と若に勧められるままに私も桜餅を口に運ぶ。餡子の上品で控えめな甘さが口中に広がり、おいしいね、と私の頬も自然と緩んだ。きっと一人で食べても、こんなに美味しいとは思えないんだろう。
あの時から私は、以前の私に比べて嘘みたいに感受性が豊かになった。でも、若と一緒にいる時の私には全く敵わないと思う。若の傍で見る世界は、本当に全てが輝いて見えるんだから。
桜餅を食べ終わると、若は自分が胴着のままだったことに気付いて着替えてきます、と家の中に戻っていった。
その小さな背中を見送ると、再び庭の桜に目をやり心から思う。
私を取り巻く世界は本当に、なんて満ち足りているんだろうか。
- end -
2009-09-17
とりあえず幼少期の弟との日常は概ねこんな感じです。とにかく弟と一緒なら幸せ。
タイトルの“百色”は『百色眼鏡』、つまり万華鏡からとりました。
要するに弟がいれば世界はキラキラだってことが言いたい。