「それでは、今日はここまでにしましょうか。さん、着替えていらっしゃいな」
「はい。ご指南、ありがとうございました」
畳に手をついて深々と頭を下げ、静かに立ち上がり部屋を出る。廊下に出て襖を最後まできっちり閉めると、ふっと溜め息が口をついて出た。
小さい頃から続けていることもあってもうあまり緊張することはないけれど、やはり気を張って行うので稽古の後は多少疲れが出る。稽古なんて気の抜けた状態でしても意味がないので、当然といえば当然かもしれないが。
若を切っ掛けに新しい人生を送るようになってからしばらくして、私は習い事を始めた。日舞に、華道に、書道。それから古武術も少し。習い事といっても、全て家族から教えを受けているものだ。日舞のとある流派の分家筋の生まれである祖母からは日舞と、趣味である華道を教わり、祖父からはやはり趣味である書道、古武術は勿論師範である父から教わっている。
どうして一度にそんな多くの手習いを始めたかといえば、理由はやはり若に他ならない。若がいるからこその、目標が出来たからだ。その目標とは至って単純で、“弟の手本となるような姉になること”。弟が「この人が自分の姉なのだ」と胸を張れるような、“自慢の姉になること”だ。
しかしそう決意したまでは良かったものの、私は自分でも誇りにできるような部分を見つけることができなかった。我ながら情けないと思ったけれど、それも仕方がないように思える。だって私は今まで、本当に漫然と生きていたのだから。ただ母の言う通り、人より優れた結果を出すために勉強や習い事をしてきた。自慢だの誇りだのといったことを考えたことなんてなく、ただ言われたことをこなす毎日。
とにかく、私は自分に自慢に思えることなどないということに気付いた。そのことにすら気付いていなかったなんてますます情けないが、それならそれで自慢できるところをつくればいい。若の自慢の姉になりたいなら、情けないと肩を落とすよりもそのための努力をすべきだと奮起した。そうして自慢の姉になるべく手始めに習い事でも始めようと決めたのである。
しかし、何か手習いを始めたいと家族に伝えたその時、私はまだ3歳だったためにいくら探してもすぐに受け入れてくれるというところはほとんどなかった。3歳というと少し成長の遅い子供であれば意思の疎通にも苦労するような年齢なので仕方ないとは思うものの、残念だという気持ちは抑えられない。そうして肩を落としていた私に祖母が「じゃあ私達で何か教えてあげましょうか」と言ってくれたことで、私はこれを、それでは私はこれを教えましょう、と次々に習い事が決まったのだ。今のところ母からは何も教わっていないが、私が刃物を持っても大丈夫だと思える年齢になれば料理や裁縫を教えてくれると約束してくれた。
以前も英会話やピアノなどの定番の習い事はしていたが、あれはいわば母の習い事を私が代行していたようなものだった。母の勧めで始め、母の満足する水準まで習得する。そこに私の感情が介入することはなく、上達したら嬉しいのは私ではなく母で、なかなか上達できずに悔しい思いをするのも母だった。
しかしこうして鍛錬のような意味合いで始めた手習いには、不思議と楽しさも、上手くいかない悔しさも存在していた。自分の意志が存在するだけでこうも違うものかと初めは少し驚きすら感じたものだが、上達したいと自分で思っているのだから努力が実れば嬉しく成果が思うように出なければ悔しいのも当然といえば当然だろう。
とりあえず得意なことをつくろう、という安易な考えで始めてみた習い事だったが、それらは私に想定外の楽しみをもたらしてくれた。
「……ふう」
部屋に戻って着物から普段着に着替えると、改めて気が抜けた。着物を着るのにももう慣れたとはいっても、やっぱり洋服の方が着心地がゆったりしていて寛げる。
着物を綺麗に畳んで仕舞うと、ぺたりと畳に腰を下ろして壁に寄りかかった。ちらりと壁に掛けられた時計に目をやれば、いつも稽古を終える時間よりも少しだけ早い。この時間なら、若の方はまだ稽古中かもしれない。そう思って、良い機会かもしれない、と腰を上げた。
普段、若が稽古をしているところを見られることはあまりない。若が稽古をしているようなときは大抵私も何がしかの手習いを受けていて、私が稽古を終えて部屋に戻るときには大体若も胴着姿で同じように部屋に戻るところなのだ。ものの見事に稽古の時間帯が被っているなと思っていたら、どうやら私達がお互いの稽古ですれ違ったりせずになるべく一緒に過ごせるよう、わざわざ時間を合わせてくれているらしい。
しかしその心遣いは確かに有難いけれど、若の稽古風景を見られなくて少し残念なのは否めない。私の方が習っているものの数が多いので若は稽古がないときに私が稽古をつけてもらっているところをそっと覗いていたりするが、若が稽古をしているときに私の時間が空いていることはほとんどないのだ。偶に一緒に古武術の稽古をつけてもらうこともあるものの、その場合は稽古に集中しなければならないので若の方に意識を向けられる余裕などなく視界の端にちらちらと若が映る程度だった。
玄関を出て道場の前まで移動すると、稽古の邪魔にならないようまず庭先からそっと中の様子を伺ってみる。胴着姿の、若の姿が見えた。
頑張ってるなぁ、なんて見たままのことを思いながらしばらく覗いていると「そこまで」という父の言葉で若の動きが止まり、一礼と共に稽古が終了した。普段より稽古が早く終わったとはいえ、着替えたり着物を畳んだりしていた時間もあるのでやっぱり少ししか見られなかったが、それでも満足だ。少しでも真剣に稽古をする若を見ることができて良かった。やはりうちの弟は可愛い。
頬を緩めながらそんなことを考えていると、胴着のまま道場から出てきた若に「ねえさん?」と声をかけられた。
「どうしたんですか? こんなところで」
「うん、ちょっとね。まいのけいこが早めにおわったから」
少し見学してたの、と言うと、見てたんですか? と若は照れたように少しだけ眉根を寄せる。
「ええと……その、どうでしたか?」
「若のけいこのこと? すごくしんけんで、がんばってるなと思ったよ。かっこよかった」
そう言いながら稽古で少し乱れたままの若の前髪を撫でるようにして整えると、ますます照れた様子で小さく「そうですか」とだけ呟いた。そんな様子は本当に可愛いらしくて微笑ましくなるが、稽古にあたる若の姿は幼いながらに凛々しいもので、特にどんな相手に負けまいとするその姿勢は尊敬に値するものだ。若は体格や年齢が劣るからといって、それを理由に下位に甘んじることを良しとしない。自分より明らかに実力が上だろう相手にも負けて当然などと思わず、必死で喰らいついていこうとする。
いつだって真剣で一途で……そういう若だからこそ私も必死に努力を重ねて、若が自慢に思ってくれるような立派な人間になりたいと思うのだ。
「あの、おれ、きがえてきますから」
まだ少し照れが残るのか、ちょっと困ったように眉間に軽く皺を寄せたまま早口でそう言うと、若は母屋へと走って行ってしまった。それじゃあ私は麦茶でも用意して待っていようかな、と同じように母屋に向かって歩き出す。
ずっと稽古をしていたんだから、きっと汗も沢山かいているはず。少しお腹も空いているかもしれないし、昨日母さんと一緒に作った芋羊羹がまだ残っていたからそれも一緒に出してみようか。ああ、でもそれなら麦茶じゃなくて温めの緑茶の方が良いかな。
つらつらと幸せな思考を巡らせながら、稽古に打ち込む若の姿を思い出す。あの純粋な存在に見合う人間になるためなら、自分はどんな苦労だって厭わずにいられるだろう。
- end -
2009-09-29
タイトルの通り、ヒロインは日々自分磨きに尽力していますという話です。ヒロインの説明ばっかりで申し訳ない。
割とどうでもいいことですが、若は門下生で身近に年上の男の子が沢山いる環境で育っているので、周りの影響で結構小さい頃から姉のことを『姉さん』と呼んだり自分のことを『俺』と呼んだりしていそうな気がしています。負けん気が強いので「子供扱いされたくない!」と大人びた喋りを意識していそう。