カラリと教室の戸を開けると、中にはもう既に大体の生徒が揃っていた。少しゆっくりし過ぎたかな、と思いながら座席表の張り付けらている黒板の前へと移動し、席を確かめる。窓際の列の、真ん中より少し後ろの席だ。
あまり目が良くないのでもう少し前の方の席が良かったけど、窓際というのはなかなか良い。今の時期は視線を少し横にずらせば満開の桜を見ることができる。席に着いて少しだけ窓を開けると、まだほんの少し寒さを残す風と共に淡い桃色の花弁がふわりと吹き込んできた。
(綺麗……)
小さく感嘆の息を漏らしながら、眼下に広がる薄桃色の世界に見入る。家の桜も立派で綺麗だけど、この学園の桜はなにせ数があるので春になるといつも圧倒されてしまう。今朝校内に入ったときも思わず桜並木のところで立ち止まってしまって、早めに家を出たのにこんな時間になってしまった。
今が盛りと咲き誇る桜の木々をこうして上から見下ろしていると、なんだか飛行機から窓の外を覗いているみたいだ。薄桃色の桜の花は遠くから見るとピンクというより白っぽくて、まるで雲みたいに見える。顔の前で軽く組んだ手に顎を預けて暫くそんな風に外の景色を堪能していると、いつの間にそんなに時間が経ったのか、もう式場へと移動しなければならない時間になっていた。
今日はこの氷帝学園中等部の新たな生徒を迎え入れる、入学の日だ。そして私も今日からめでたく中学生になったわけで、こうして盛大な拍手と共に広大な講堂の中を自席に向かって歩いている。
暫くして新入生が全員入場し終えると、学長の式辞や校歌斉唱など何事もなく式が進行していく。しかし式の終盤、新入生代表の挨拶をする生徒が壇上に上がりマイクを握った瞬間に、少なくとも私には“何事もなく”などと言えないようなことが起こった。
「いいか、最初に言っておく。今日からこの俺様が、氷帝学園のキングだ!」
普通なら無難なスピーチが聞こえてくるはずの口から発されたのは、そんな不遜極まりない(率直に表現するならば頭のおかしい)言葉だった。思わず意味もなく瞬きを繰り返すが、いくら瞬きをしても壇上の少年の口から放たれる言葉から不遜さが失われることは全くない。それから一流の環境がどうだとか、自分を甘やかすなとか、そんなようなことを話しているようだけれど、私は最初のインパクトに圧倒されてしまいその半分も頭に入ってこなかった。
「凄い……とんでもない人……」
本当に、とんでもないの一言に尽きる。入学式という行事の一部を軽んじるわけではないが、基本的に新入生代表挨拶なんてものは『この学校に入学できて嬉しい』というような当たり障りのないことを言って終わるものだと思っていた。
そんなことを考えながら壇上に立つ男子生徒を見上げていると、すぐ近くでクッと笑いを堪えるように喉を鳴らす音がした。思わずその音のした方向に視線を向けると、つり上がった口元を片手で押さえている眼鏡をかけた男子生徒と目が合う。隠そうとしているのだろうが、頬の筋肉の動きで明らかに笑っているのが分かるのであまり意味を成していない。何か? と尋ねる意味を込めて少し首を傾げると、その男の子は「や、すまん。正直な感想やなぁ思て」と面白そうにまた喉を鳴らした。聞き慣れない関西弁に外部からの子か、と思いながら「別に口に出そうと思ったわけじゃないんだけど……」と呟くように返す。
「本当に、とんでもないとしか思えなかったから」
「ははっ、思わず出てもうたっちゅうことは、ほんま素直な感想やったんやな」
俺もめっちゃとんでもない奴や思たわ、と声を潜めながら愉快そうに目を細める。それからその眼鏡の男の子は「けど一部の女子、反応おかしないか?」と零しながらちらりと後方に視線をやった。つられて目立たない程度にそっと後ろを振り返ってみると、壇上から降りる途中の例の代表者を薄く頬を染めながら見つめている何人かの女の子が目に入る。
「……今の、うっとりするところあったんだ?」
「んー……ない、と思いたいところやけどなぁ」
呆れたような、でもどこか愉快そうな声になんとなく彼のほうをちらりと窺うと、その向こうに少し険しい顔で私達を見ている教師の顔が目に入った。ああ、やっぱり少し目立ったみたいだ。
「もう黙らないと。先生、こっち見てる」
「ん?ああ、ほんまや。少し大っぴらに話しすぎたか」
ほなら、また後でな。
そう言って目を細めながら、今度は彼のほうがこちらにちらりと視線を寄越す。それに私が軽く頷くのを確認すると、彼は満足したように笑って壇上のほうへ向き直った。
「それじゃあ私は少し職員室に行ってくるので、その間に周りのお友達と色々話をしてみて下さい。あんまり騒ぎすぎないようにね」
入学式も終わり、クラスに戻って自己紹介などの軽いHRが終わると担任である女性教師はそう言い残して教室を出ていった。それから次第に教室全体がざわざわと騒がしくなり、それぞれが思い思いの動きを見せ始める。
運良く友人と同じクラスになった者は互いに駆け寄り「同じクラスだね」と喜び合い、そうでない者は席が近い人間に話しかけてみたり、自席で大人しくしていたり。私はその中の『知り合いがいないので自席で大人しくしている』タイプの人間だった。幼稚舎からの持ち上がり組であるとはいえ、氷帝は幼稚舎も相当な規模なので今までにそれなりの交流を持ったことがある人と同じクラスになる確立はなかなかに低いのだ。
入学式や卒業式などの行事ではこういう待機していなければならない時間ができることが多いので、事前に退屈しのぎの本を鞄に忍ばせてきてある。それを取り出して栞の挟まれているページを開いたところで、担任がいなくなると同時に無人になっていた前の席がガタリと音を立てた。
「ん?ああ…………えっと、忍足君」
私の前の席にゆったりとした緩い動作で腰を下ろしたのは、先ほど関西弁の彼だった。彼は横向きに座った椅子の背もたれに軽く肘を置いて頬杖をつくと、「すまんな、読書の邪魔してもうて」と軽く笑いながら謝罪の言葉を口にした。
「ううん、大丈夫。まだ読み始めてはいなかったから」
「さよか、ほんなら良かったわ。また日吉さんと話でもでけへんかなー思てな。さっきの自己紹介でも言うたけど、大阪からこっち出てきたばっかでほんまに知り合い一人もおらんねん。良かったらちょお話し相手んなってくれへんかな?」
さっき、また後でーて言うたやろ?
そう言ってにこりと笑う忍足君に社交辞令じゃなかったんだなぁ、なんて思いながら「私で良ければ」と返せば忍足君はまたゆったりと口角を上げる。ほんならよろしゅう、という言葉と共に差し出された手を取り、こちらこそ、と私も微笑みを返した。
始まりはただ“同じクラスになった知り合いのいない者同士”というだけのことだったけれど、それは私が後々かけがえのない仲間となる人達の、最初の一人を手に入れた瞬間だった。
- end -
2009-10-06
忍足が入学式に参加できてる事以外は概ねOVAの展開通りな設定です。この後跡部がテニス部を乗っ取ったり、宍戸達と試合をしたり、若が下剋上等を誓ったりするわけですね。