故郷から遠く離れた地で迎える、始まりの季節。
視界が薄桃色に染まるほどの桜吹雪の中、俺は美しい幻想を見た。
はらはらと途切れることなく降り続ける花弁を一身に受けながら、一人の少女が佇んでいる。その姿を視界に認めた瞬間、俺は足を動かすことをやめていた。
身体の硬直は風に煽られた自分の髪に視界を遮られてしまうまで続き、俺がハッとして前髪を掻き上げる頃には既に彼女の姿はなかった。周囲を見回しても、その姿は見当たらない。というより俺の周りは既に人影自体が少なくなっていて、まずいなと携帯で時間を確認すると思った通りもう大体の生徒が教室に着いているだろう時間になっていた。
教室へと足を急がせながら、さっき見た光景を反芻する。あんなふうに、誰かに見惚れたのは初めてだった。時折風に乱される柔らかそうな密色の髪をそっと整える仕草が驚くほど綺麗で、自分でも気づかないうちに見入ってしまっていた。
(なんや、白昼夢でも見たような気分やな……)
そうでなければ、狐に化かされたとでもいうのか。とにかく、幻想的な薄桃色の雨のせいか彼女の姿は酷く儚げで現実味が薄かった。今『この学園の桜には精霊がいる』なんて七不思議でも聞こうものなら、あれがそうだったのかと納得してしまいそうだ。制服姿の精霊、というのもおかしな話だが。
同じ校舎で生活していればまた会うこともあるかもしれないな、となんとはなしに考えながら漸く辿り着いた教室の戸に手を掛ける。こんな人とは少しズレた時間に教室に入ったら、きっと必要以上に注目されるんだろう。容易に想像できる視線の嵐に少しうんざりしながらもそのままガラリと戸を引けば、やはりクラス中の人間が音の発生源を振り返った。そない注目したかて何も出えへんわ、と内心で軽く毒吐きながら何気なくクラスを見回して、室内へと踏み出し掛けた足が今朝と同じように止まる。桜の精がいたのだ。
再び俺の身体の自由を唐突に奪っていったその桜の精は、窓際の席で静かに外の景色を眺めていた。その視線の先にはやはり満開の桜がある。薄っすらと開かれた窓から入ってくる風が彼女の密色の髪をさらりさらりと弄んでは、運んできた薄桃の花弁で飾り立てていた。指を交差させるようにして緩く組んだ手に顎を乗せうっとりした様子で小さく溜め息を吐く彼女は、それこそ思わず溜め息が出そうになるほど美しい。見目麗しいというのもあるが、それ以前に纏う雰囲気が美しかった。間違いなく、その場にいる誰よりも目を引く存在だ。
(あれでつい最近までランドセル背負ってたとか、ほんま信じられへん)
自分も大概人のことを言えたものでないということは一応自覚しているが、それでもそう思わずにはいられなかった。桜に心奪われながら淡く微笑む彼女は、今年でやっと中学生になるような子供には見えない。かといって大人と見紛うというわけではなく、少し丸みを帯びた輪郭などにはまだ幼さが残っており、ただ雰囲気がとても大人びていた。当たり前のように上級生だろうと思っていたが、まさか同級生だったとは。
(どんな子なんやろ)
ようやく金縛りから解けた足を動かして指定された座席へ向かうと、式場へ移動する時間になるまでふと彼女を振り返ってはそんなことを考えてぼんやりしていた。
どんな子なんだろうか、というその疑問の答えを垣間見る機会は、結構早くやってきた。新入生代表挨拶で壇上に上がった男子生徒がえらく頭の悪そうな演説をし始めたときのことだ。
俺は「こーいう代表挨拶って、入試でいっちゃん成績良かったヤツがやるもんなんとちゃうんか」としばらく唖然としていたが、ふとすぐ近くに例の桜の精が座っていることに気付き、こんな頭の痛くなりそうな代表挨拶を真面目くさって聞いているより余程良い、とそちらの様子を見ていることにした。
彼女もその代表挨拶の内容に驚いてはいたようだったが、あまり顔色を変えることなく壇上を見つめている。クールな子なんかな、と思っていると「凄い……とんでもない人……」と彼女がやはり顔色を変えないまま、そう呟いたのが聞こえた。陳腐だとは思うが、鈴を転がすような声とでも言おうか。初めて耳にした高すぎない澄んだその声は、正にそういう感じだった。
そしてその声を綺麗だと思うのと同時に、その純粋な驚きが込められた呟きが何だか可笑しくて思わずクッと喉を鳴らしてしまった。この子はクールというよりは、どうやらマイペースな子らしい。少しぼんやりしているというか、おっとりしているというか。真面目な表情で壇上へと視線を向けたままパチパチと繰り返し瞳を瞬かせる様子に、つい口角が上がってしまう。
そんな俺の密かな笑いは相手にも伝わってしまったらしく、彼女はふと俺の方へ視線を向けた。濃度の高い蜜色をした、琥珀のような瞳と俺の瞳がかち合う。彼女がまた一つ瞬きをして、その瞬間、俺の中でも何かが瞬くようにして煌めいた気がした。
「や、すまん。正直な感想やなぁ思て」
不思議そうに小首を傾げる彼女にそう軽く謝りながら、ふと可笑しくなってまた口元が緩む。誰かに見惚れたのも初めてなら、こんな感覚を味わうのも初めてだ。
春は様々なものが変化する、始まりの季節。新たなものに溢れかえる季節。
例に漏れず自分も今日から以前とは全く違う環境下に飛び込むことになるのは分かっていたが、入学初日からこんなにも立て続けに初めての体験をすることになるとは先日故郷を離れる時には全く予想していなかった。
「それじゃあ私は少し職員室に行ってくるので、その間に周りのお友達と色々話をしてみて下さい。あんまり騒ぎすぎないようにね」
HRが終わって担任のその一言により周囲が席を立って移動する中、俺は今朝と同じように窓際の席を眺めていた。俺が頭の中で便宜上“桜の精”(特に気にしていなかったが、考えてみればかなり痛々しい名称だった)と呼んでいたクラスメイトは、日吉という名前らしい。さっきの自己紹介では彼女の順番が回ってくることばかり意識していたので、正直他のクラスメイトの名前をあまり把握できていない。
見たところ、彼女もこのクラスに知り合いはいないようだった。彼女自ら話しかけようとする人間もいなければ、彼女に話しかけようとする人間もいない。チラチラと視線を送っている人間は男女を問わず多くいるが、日吉さんは気付いているのかいないのか、その視線を全く気にすることなくなにやら自分の鞄を探っている。
そしてそれと同じように俺自身も、向けられる複数の視線を感じていた。自分で言うのもなんだが、親譲りの俺の顔立ちは客観的に見て整っているほうなのでそのせいだろう。そんなことを考えていると明らかに俺のほうを見ながら近付いてくる二人組の女子が視界に入り、それを切っ掛けに俺は立ち上がって席を離れた。少なくとも一年間クラスメイトとして生活を共にする彼女達と話をしておくのもやぶさかではないが、俺はまず彼女ともう一度話がしてみたい。
カツカツと俺が窓際に向かうと、日吉さんの席に近付くにつれて向けられる視線が多くなるのが分かる。まあ日吉さんに向いていた視線と俺に向いていた視線が合わさってくるので、当たり前といえば当たり前だが。
ガタン、と音を立てて日吉さんの前の席に座ると、ちょうど鞄から取り出した本を開いたところだった日吉さんがふと顔を上げる。僅かな沈黙の後、彼女の唇が忍足君、と俺の名前を紡いだ。それを見て、また俺の中で何かが瞬く。
その煌めきに、俺はこれから何と名前を付けようか。
- end -
2009-10-14
何だか忍足が基本的に恥ずかしい思考の人になってしまいました。何が桜の精か、このロマンス野郎……。
あと実際に会うまでの皆の跡部の印象がちょっと可哀想なことに。少々申し訳ないです。