「それじゃあ、今日も宜しくお願いします」
「ええ、お任せ下さい」
「も、頑張ってね。終わる頃になったらまた迎えに来るから」
「はい、がんばります」
それでは失礼します、ともう一度頭を下げ、母はいつものように私へ小さく微笑みかけると門をくぐって今来た道を引き返していく。その背を見送ってから、私も先生に促されて同じように踵を返した。
綺麗に整えられた日本庭園を奥に進めば、落ち着いた佇まいの小さな建物。数週間前から私が通い始めた、茶道教室の茶室である。
私が氷帝学園の幼稚舎に入学してから程なくしてこの新たな習い事を始めることになったのは、祖母が家を訪れていた友人に私を紹介したことが切っ掛けだった。
ある日、普段通り私が祖母に稽古をつけてもらっていたところへ所用で家の近くへ来ていた先生が祖母を訪ねて家を訪れた。それがちょうどもう少しで稽古が終わろうという頃だったので少しのあいだ先生に待っていただき最後まで稽古を続けたのだが、その稽古の様子を見ていた先生が「小さいのにきちんと稽古に集中していて、偉い子ね」と私に好印象を持ったらしく、その後祖母が先生に私を紹介した際に私も一緒にお茶をしないかと誘って下さった。そしてそのお茶の席で私が色々な手習いを受けているという話を聞いた先生に、「私も茶道を教えているのだけれど、どうかしら?」と誘いを受けたのだ。祖母の影響もあって日本芸能には関心があった私は両親の許可が得られれば是非にと首を縦に振り、その後無事両親の許可も下りてからはとんとん拍子に話が進んでいった。
そうして通い始めた先生の茶道教室はカルチャースクールのようなものと違って個人宅で行う小規模なもので、少人数であるが故に内容の密度が高かった。ずっと家族から個人指導という形で稽古を受けてきた私にはとても合っていて、好ましい形式だ。もともと茶道については祖母から基礎的な知識や作法などは教わっていたこともあって稽古も早くから実地のものに移ることができ、私は実に楽しく充実した稽古の時間を過ごすことができている。
ざり、と茶室を目指して砂利を踏みしめながら、今日はどうなるだろう、と考える。今日から、少し違った環境で稽古をすることになっているのだ。
この茶道教室には勿論私の他にも茶道を習いに来ている方がいるが、そうした人達は殆どが女性で、私以外は総じて大人と呼べる年齢である。今まではその私より随分年上な方々と一緒に先生の指導を受けていたのだが、先週先生に「稽古の日を別の曜日にしてもらってもいいかしら?」と言われて今日からは別の人と一緒に稽古を受けることになった。別の人―――私と同い年の、男の子と。
「先生? 例の私と一緒にけいこを受ける子ですけど……もう来てるんですか?」
「ええ、ちょうどちゃんが来る少し前にね」
ということは、もう既に茶室で待っているらしい。先生は大人に混じって稽古をするより同年代の子との方がやりやすいだろうということでその男の子と私の稽古日を一緒にしてくれたらしいが、二人だけとなると合わなかったらちょっとやりづらくなるな、なんて逆に少し心配になってしまう。
どんな子だろう、と少しだけ緊張しながら先生に続いて茶室に入ると、中では綺麗な黒髪の男の子が姿勢良く正座をして待っていた。
「ちゃん、こちらが柳蓮二君よ」
「日吉です。よろしくお願いします」
「柳蓮二です。よろしく」
「もう言ってあると思うけれど、これから二人には毎週一緒に稽古をしてもらう予定です。二人とも仲良くしてちょうだいね」
はい、と返事をする声が綺麗に揃って、思わず視線を隣に移すと相手も同じようにこちらを向いていた。目が合ったと思っていいのか、その細い目からはよく分からなかったけれど。
その様子を見た先生に「あら、心配はなさそうかしら」と微笑まれ、私と柳君はやはり同じように曖昧な笑みでそれに答えた。
それから今日が初めての稽古である柳君のため、席入りなどの作法は一先ず後回しにしてまず茶道というものを楽しんでもらおう、ということになった。
既に用意してあった道具を手際良く配置し、先生が茶道についてあれこれ話しながら薄茶を点てていく。
「ちゃんも、今日は客作法を気にせず飲んでしまっていいわよ。今日は純粋に、お抹茶の味を楽しみましょう」
お菓子も用意してありますからね、と差し出された干菓子と一緒に先生のお茶を頂けば、いつものように知らず知らず頬が緩む。隣に座る柳君の口からもふっと溜め息が漏れて、次いで「美味しい……」という呟きも零れた。
「ふふ、口に合ったなら良かったわ。今日は蓮二君の歓迎も兼ねているから、特別良いお抹茶を使ったのよ」
「やっぱり、値だんに比例するものですか?」
「そうねぇ。良いものほど苦味もないし甘みも強いから、小さい子でも美味しくいただけるの」
そうして美味しいお茶とお菓子を頂いたあとは拙いながらも私と柳君もお茶を点ててみたり、その点てたお茶を互いに味見してみたり、と茶道に親しむ第一歩に相応しい楽しい稽古をして過ごした。柳君は実際にお茶を点てる初めてで、私もまだ数回しか挑戦したことがないので先生のようには上手くいかなかったけれど、質の良い抹茶のせいかほんのりと甘いそれはどちらのものもやはり美味しかった。
「茶道というと、もう少し形式ばったものかと思っていた」
稽古を終えて先生が茶道具の後始末のために水屋の方へ下がると、柳君はふっと息を吐いてからそう言った。そんなこともないんだな、と続ける柳君の顔は何だか少し嬉しそうで、私もつい頬が緩む。
「うん。先生も、茶道は美味しいお茶とお菓子を頂きながら人と交流するのを楽しむものだって言ってたしね」
「日吉は、ここに通って長いのか?」
「ううん、ついこの間から」
ちょうど新学期になったくらいの頃からかな、と答えると、柳君は「そうなのか?」と少し意外そうに眉を上げた。
「茶道についてなかなかくわしいようだったし、長いのかと思ったんだが」
「ああ、うん。私、元から茶道のきそ的な作法とか動作は祖母に習ってたの。知ってるだけで、初心者だよ」
「そうだったのか」
「そういう柳君も、結こう茶道のこと知ってるみたいだったけど」
「ああ、俺はここに来ることが決まってから茶道にかんする本をいくつか読んでみたりしていたから」
そんなふうにして話をしていると、柳君は普段学校で顔を合わせる同年代の子供達よりも考え方や嗜好といった、そういう感性が近いということが少しずつ分かってくる。
読書が好きだったり、知識欲が強かったり、静かな時間の過ごし方が好きだったり。そういう共通点が見つかるにつれ、私達のあいだに笑顔が増えていった。趣味の合う友人が少ない、というのは私だけでなく柳君にしても同じことのようで、稽古の前までは無表情に近かった柳君の顔は今ではだいぶ柔らかくなっている。
暫くして迎えが来たということを知らせに茶室に戻ってきた先生は、私達の様子を見て「二人とも、本当に心配なんてなさそうねぇ」と稽古の前と同じように微笑んだ。それに対して今度は二人共自然な笑みを浮かべて、そのまま顔を見合わせる。
心配が杞憂で終わって良かった、と心の中で呟きながら、私達は「これからよろしく」と改めて微笑み合った。
- end -
2009-11-09
茶道教室で東京住まいの参謀と出会うの巻。ということで、幼馴染第1号のできあがりです。
「博士!」「教授!」ってやってた柳の小学生時代の口調が分からず中途半端な喋りになったのが残念……。