お姫様の日


 朝、額の辺りをさらさらと何かが行き来する感覚にふと目を覚ます。まだ重い瞼をゆっくりと引き上げると、にっこりと笑うちょた君の顔が目に入った。

「おはよう、
「ん……おはよー……」
「それと、お誕生日おめでとう」

 まだぼんやりする意識の中、ちょた君の一言が耳に入って、少しずつ脳に伝わる。そしてその一言の意味を理解すると同時に、ぱっと意識が覚醒した。そうだった、今日って、私の誕生日だ!
 昨日もちょた君やお母さん達に「明日は誕生日だね」と言われていたし、自分でも認識していたけど、寝起きの頭からはそんなことすっぽり抜け落ちていた。そうか、だからちょた君が起こしに来てくれたんだ。

「ありがとー、ちょた君。今年も一番だね」

 そう言うと、ちょた君はすごく嬉しそうに顔を綻ばせた。
 ちょた君は毎年私の誕生日にはわざわざ部屋まで私を起こしに来て、“おはよう”と一緒に“おめでとう”と言ってくれる。
 それはもう半ば習慣のようになっていて、いつからそうなったのかもよく覚えていない。でも「ちょた君が一番に言ってくれたよ」と言うと、ちょた君は毎年変わらずに嬉しそうに破顔するのだ。
 おめでとうと言ってくれるのも嬉しいけど、どちらかといえば一番に言えたと喜ぶ兄の姿の方が嬉しい、というのは多分ちょた君は知らないだろう。流石に恥ずかしいから、別にいいんだけど。

「朝ご飯、パネラでシナモンロール買ってきたんだ。焼きたて貰ってきたからまだ温かいよ」
「え、うそ、あの胡桃入りのやつ?」

 パネラというのは近所(というほど近くもないんだけど)のベーカリー。パン屋というと「ベーカリーだ!」と一々訂正するお兄さんがやっているお店で、あそこのシナモンロールは私の好物のひとつなのだ。
 あれ凄い好き!と思わず大きな声を出すと、ちょた君は「うん、知ってる」とやっぱり嬉しそうな顔をした。ああもう、このお兄ちゃんめ!








 それから制服に着替えてリビングへ行くとお母さん達も祝ってくれて、学校に着けば今度はクラスメイトにおめでとうと声を掛けられた。移動教室で廊下を歩いている時には同じように移動教室らしい宍戸先輩やジロー先輩に会っておめでとうとお菓子をいっぱい貰ったし、忍足先輩達はお昼にわざわざ教室までお祝いに来てくれた。
 まあ安モンやけど貰ったってな、と綺麗な小物入れや携帯ストラップを渡され、何で先輩達にも知れ渡ってるんだろうとちょっとびっくりしたが少し考えてから愚問だったと一人納得した。数日ほど前にちょた君が今日の部活を休むために突然「後生です跡部部長!」の言葉と共に跡部先輩に土下座しようとした、という話は私の耳にも届いている。
 それじゃ、と自分達の教室に帰っていく先輩達を見送って、貰ったストラップを早速つけようと携帯を取り出せば受信ボックスには国くんからのメール。誕生日おめでとう、というシンプル過ぎるそれはいつも通りで、やっぱり嬉しかった。

 そうして浮き立つような気分のまま午後の授業を受け終えて、今はちょた君と一緒に下校している途中。家へと向かう足取りは気分に比例して軽くなる。

「『ばらの騎士』だっけ、今日観るのって」
「うん、確か父さんがそう言ってたはずだよ」

 結構良い席がとれたって、というちょた君の言葉に心が弾む。うん、楽しみだ!
 鳳家には『家族の誕生日はみんなでオペラを観に行く』という習慣がある。初めて連れて行かれた時には「ひぃ、セレブリティ!」と腰が引けたが、今ではすっかり慣れて観たいオペラを自分で挙げられるまでになった。海外のと違って日本の劇場はそこまでゴージャスな感じでないものが多いので、案外慣れるのも早かった気がする。
 それにしても、こうして考えると私も高尚な趣味になったもんだ。純文学が好きでオペラもよく観るって、どこのお嬢様だよって感じですよね。まあ家柄的にはお嬢様なんだろうけど。
 そんなことを考えつつちょたくんと演目の話をしていると帰り道なんてすぐで、あっという間に自宅前。ちょた君が開けてくれた門を通り抜け玄関のドアをくぐると、すぐにリビングからお母さんが出てきて出迎えてくれた。

「ただいまー」
「二人ともお帰りなさい」

 にこにこと笑うお母さんは既に出掛ける準備万端の様子で、時計に視線をやってみると既に4時半を過ぎていた。確か開演は7時。開演の30分前には着いていたいから、ちょっと急いだ方がいいかもしれない。

「ちょた君、私何着ればいい?」

 そう首を傾げると、ちょっと待ってて、という言葉を残してちょた君はリビングの方へ引っ込んだ。
 これも私の誕生日の習慣のひとつで、この日だけちょた君は私の専属スタイリストになるのだ。それも万能の。
 初めは「誕生日なんだから何かしてあげたい」と服の見立てをしてくれる程度だったはずが、年を重ねるにつれてヘアメイク、ネイル、とやってくれることが徐々に増えていって今では全身ちょた君プロデュース状態。流石に子供なのでメイクまではしていないが、そのうち言い始めそうな気がする。
 リビングから戻ってきたちょた君から白い袋を受け取り自室に戻ると、姿見の前に直行して早速袋を開けてみた。中から出てきたのは、コットンニットの淡いピンク色のワンピースと白いボレロ。

「おお、流石ちょた君。センス良い」

 フォーマル過ぎず、かと言ってカジュアル過ぎず、良家のお嬢さんっぽい。ちょっと良い席でオペラを観るにはぴったりな感じだ。
 脱いだ制服をハンガーに掛けてワンピースに袖を通してみると、着心地も良かった。
つくづく外さない男だな、と思いつつボレロも着てからリビングに向かうと、既に着替え終わったちょた君がマニキュアやらヘアスプレーやらを用意してスタンバイしていた。

「やっぱり、は淡い色が似合うから絶対似合うと思ったんだ!気に入ってくれた?」
「うん、気に入った。すっごく可愛い!ありがとね、ちょた君」

 そう返すと、ちょた君は今日一番の笑顔で「良かった……」と安心したように息を吐いた。
 毎年思うけど、ちょた君って私の誕生日に私より嬉しそうにするよなぁ。ある程度慣れたとは言え、何かくすぐったい。

「じゃあ、こっちに座って。まず爪をやっちゃうから」

 そう促されるままに椅子に座ると、片手にバッファーを持ったちょた君が目の前に膝をついた。
 バッフィング、ベースコート、と丁寧に下準備をし、ベースカラーを塗り始めたちょた君を眺めながら思う。私今、正しく傅かれてる。

「いっつも思うけど、ちょた君ってこういうのどこで覚えてくるの?」
「うん?雑誌とか見てるだけだよ?」

 それがどうかした?と首を傾げるちょた君の手元には、綺麗な桜色に染まった私の爪がある。二度塗りしたベースカラーが乾く前に少し濃い目のピンクをちょんちょんと落としてドット柄にしていく手付きも正確だ。
 暫くして「はい、終わり」と言われた頃には、私の指先は大変可愛らしいことになっていた。ピンクのドット柄に、エッジにホワイトを塗ったフレンチネイル。薬指に付けた3Dのリボンがすごく可愛い。
 正直こんなん雑誌見ただけで簡単にできちゃったら、ネイル屋さんはご飯を食べていけないと思うのは私だけかな。

「すーっごい可愛い!ねえちょた君、ホントに雑誌見ただけなの?何かもうすごくすごいんだけど!」
「えーっと……その、母さんに………」

 練習台になってもらって、とはにかみながらちょた君はマニキュアの刷毛をブラシに持ち替えた。
 そんな地道な努力があったなんて知らなかったな……。ていうかちょた君がネイルもやってくれるようなったのっていつだったっけ。とりあえず小学校の頃なのは確かだけど、母親を練習台にネイルの練習する小学生男子って一体……。
 さらさらと髪を梳かれながらなんとなく微妙な気持ちになったが、気にしないことにした。ちょた君だし、の一言で解決だ。
 耳から上の髪をくるりとねじり上げられたのを感じながら、ふうと爪に息を吹きかける。髪をまとめてる最中だから下手に動けないし、手もネイルが乾くまでそっとしておかないと服に付きかねない。何も出来ないからちょっと退屈。
 早く乾かないかなーと思いつつ大人しく終わるのを待っていると、サッと軽くスプレーをかけたのを最後にちょた君の動きが止まった。それからひょいと顔を覗きこまれ、にこりと微笑まれる。うーん、王子様スマイル。

「うん、完成。可愛いよ

 そう言って満足そうに頷くちょた君が渡してくれた鏡を覗き込むと、ハーフアップにされた自分の髪が映った。
 アップした髪を固定している大きめのアクセントがついたヘアクリップが可愛くてへにゃりと顔が緩む。ちょた君ってホントにこういうの、センスいいよなぁ。
 ありがとちょた君!とお礼を言って椅子から立ち上がると、ちょうど玄関の方から「そろそろ行きましょ〜」とお母さんの声が掛かった。
 その声を受けて「じゃあ行こうか」とちょた君が自然な動きで手を差し出す。劇場までの完璧なエスコートが約束されたその手に片手を預け、今度は2人でにこりと微笑みあった。








 ちゃぷん、と広い湯船に顎先まで浸かり身体を弛緩させる。
 ちょうどいい湯加減だな、なんて天井を見上げながらぼんやりすれば、思い出されるのは幸せいっぱいな今日のこと。

 プレゼント、たくさん貰ったな。
 友達からはバスセットにルームアロマにフォトフレーム。みんな女の子らしいチョイスで、可愛いらしいものばっかり。
 お父さんは綺麗なフォルムのオペラグラスで、お母さんからは見た目も可愛いミニトワレ。沙代子さんからも部屋にぴったりのブリザーブドフラワーを貰った。
 今年は先輩達も祝ってくれて、プレゼントと「おめでとう」の数は過去最高かもしれない。

「今年も特別だったなぁ……」

 鳳家の誕生日はいつも特別だ。鳳家の人達は、家族の生まれた日を特別大切にする。
 誰の誕生日でも皆で観劇に行って、その後はメニューに値段が書かれていないようなレストランで食事をして、家に帰ってお母さん特製(お母さんの誕生日の時は私特製)のケーキを食べる。『おめでとう』に埋め尽くされた、特別な日だ。
 鳳になる前は、正直言って誕生日をこんなに特別な日だと思っていなかった。正確に言えば、思わなくなっていた、の方が正しいかもしれない。
 小さい頃はドキドキしてその日を迎えていた気がするけど、小学校高学年になる頃にはその感覚も薄れてただいつもより少し豪華な夕食を食べてプレゼントを買ってもらう日という程度の認識になっていた。中学を卒業してからはプレゼントを貰うこともなくなり本当に普段と変わりない日になった。ただ、その日を境に書類などに書く年齢を今までより1つ多くしなければならないというだけで。
 でも今の私にとって誕生日は凄く特別なものだ。中学に上がった今でも、誕生日になると浮き立つような気持ちになる。それって、凄く幸せなことだ。

 ふわふわな気分のままお風呂から出て、パジャマに着替える。
 乾ききっていない髪でパジャマが濡れないように肩にタオルを掛けて脱衣所を出ると、リビングのソファーでちょた君がドライヤーを片手に待っていた。
 おいで、と手招きされて素直にソファーに座ると、強めの風圧で手際よく髪の水分を飛ばされていく。梳きながら丁寧に乾かされる髪の毛は、カチリとドライヤーのスイッチが切られる頃にはもの凄くさらさらになっていた。
 その手触りに満足してありがとうとお礼を言うと乾かしたばかりの髪を撫でられるのも、それから部屋に戻っても数分後には部屋にやってきたちょた君と再び顔を合わせることになるのも、変わらない誕生日の約束事のようなもの。そのちょた君の手にホットミルクの入った私のマグカップがあるのも、やっぱり毎年変わらない。

「はい、。温めに作ったけど、気をつけてね」
「うん、ありがとちょた君」

 渡されたマグカップの中の白い液体にふうと息を吹きかければ、ふんわりと微かに蜂蜜の匂いが広がる。その甘い匂いを嗅ぐと、私はいつも頬が緩んで戻らなくなってしまうのだ。こくりと一口飲むと、益々戻りっこなくなる。
 カップに牛乳を入れてレンジでチン!なんて手軽なものじゃなく、沸騰しないようにミルクパンでゆっくり過熱したものだからなのか分からないが、ちょた君の作るホットミルクはとにかく美味しい。蜂蜜の量も絶妙。
 そうやって私がちびちびとカップを傾けている隙に、ちょた君は自分の部屋へ戻ってプレゼントを持ってくるのだ。それがいつものパターン。そして何故だか自分の方が嬉しそうに、それを私に渡す。

、誕生日おめでとう」

 今日2回目だけどね、と言いながら渡された今年のプレゼントは、可愛らしいオルゴールを抱えたテディベアだった。首には赤いサテンのリボンが結ばれている。

「……可愛い」
「うん、可愛いよね。が持ってたら、もっと可愛いと思って」

 ちょた君は照れる様子もなくそう言ってのけると、ゆっくりとオルゴールの蓋を開く。その途端に流れ始める可愛らしい音色はよく耳にするものだった。

「子犬のワルツ、だよね?」
「そう、ショパンの」
「ちょた君、ショパン好きだもんね。よく弾くし」

 私もショパンは好きだ。当然子犬のワルツも好き。
 暫くそれに聴き入っていると、さっきホットミルクを飲んだせいもあってか段々と瞼が重くなってきた。眠そうだね、と言われて、隠すことなくうんと頷く。

「ほら、ベッドに入って」

 促されるままにベッドへと潜り込む。それだけでもっと瞼が重くなったのに、大きな手で頭を撫でられて更に眠気が増した。
 枕元では、まだ子犬が尻尾にじゃれつく音がしている。私の瞼が完全に降りるのと同時に、子犬の小箱が静かに閉じられるのが分かった。数秒後には照明も落とされ、ごく小さな「おやすみ」という言葉と共に部屋の中は真っ暗になる。

 毎年思うんだけど、誕生日って、私お姫様みたいな扱いだよなぁ。今日私、自分で何かした覚えあんまりないもん。特にちょた君と一緒の時は絶対何もしてない。でも私がお姫様的ポジションならちょた君は兄王子ってことになるのかー。今日一日を振り返ると、むしろ従者っぽいことばっかりしてたと思うけど。ていうか姫って例え、我ながらイタイなぁ。やめよう、この表現。ああ、暖かい。眠い。幸せ。

 溶け出す思考でだらだらとおかしなことを考えながら、徐々に意識が深いところへ沈んでいくのを感じる。
 ふわふわした幸せな空気に包まれたまま、緩やかに意識が途切れた。寝付き方までなんて幸せ。



とりあえず、朝目が覚めたらまずオルゴールの蓋を開こうと思う。
それが明日からの、私の日課。










Afterword

書きたいこと全部詰め込んだら普段書いてる転生の話よりかなり長めになりました。でも楽しかったので満足!ヒロインの誕生日は兄の祝福から始まり兄の祝福で終わるのです。
ヒロインの誕生日は特に決めてないので自分の誕生日(ていうか誕生月?)にあわせて書きましたが、年子で兄が2月生まれっていうと結構限定されてきますよね。誕生日。
2009/06/21