視線が絡まる、その先で



 “視線を感じる”なんてよく言うけど、そんなのは嘘だと思っていた。


 例えば教室で。
 授業中に友達が気付け気付けと念じながら必死にアイコンタクトを試みても、『谷セン、両穴から鼻毛出とる!』と直接メールで伝えられるまで友達に視線を送られていたなんて全然気が付かなかった。

 例えば図書館で。
 音楽を聴きながら読書していた私は偶然通り掛った友達に「音漏れ」とイヤホンを突付かれ、漸く司書のお姉さんに睨まれていたということに気付くことができた。


 とにかく私は今まで普通に生活してきた中で、視線なんてものを察することができた試しがおそらく一度もない。ただ私が鈍感なだけで他の人は結構感じるものなのかもしれないが、とりあえず私は感じたことがなかった。自分が感じないなら他人がどう感じようが関係ないことだ。視線を感じる、なんて嘘。少なくとも私の中ではそうだった。
 視線やら気配やら、とにかくそういった曖昧なものが感じ取れるのは漫画や本の中での話。私みたいな平々凡々な女子中学生が日常生活の中でそんなことできるもんじゃない。そう、思っていたのだ。なのに。

(何、なんだろう。一体)

 ふう、と軽く溜め息を吐きながら、机の上に広げた本のページを慣れた手つきでパラリと繰る。紙面上に広がる世界は普段なら私を魅了して止まないはずなのに、さっきからちっとも集中することができないでいた。
 いや、“さっきから”というより“図書室に来るようになってから”。それも、図書室限定で。

 こうして私がお昼休みに学校の図書室に来るようになったのは、3年になってからのことだ。数ヶ月前、いつもお昼を2人で食べていた友達に彼氏が出来てから。友達から週に一度は彼氏と昼食をとりたいと言われ、どうぞどうぞと快諾してからのこと。
 それから毎週火曜日、私は1人で素早くお昼を食べては図書室に直行していた。別に他の友達と一緒に食べても良かったが、こういう単独行動も嫌いじゃない。1人でご飯を食べている時はちょっと自分でも侘しい気がするも、図書室を覗くにはいい機会だと思ったのだ。私はいつも府立図書館を愛用しているので学校の図書室は偶に授業で使う以外はほとんど利用したことはなかったが、興味がないわけではなかった。

 そういうわけで普段本を読むならもっぱら家でゆっくり、と学校では友人との時間を優先させていた私だが、週に一度くらい学校でも本を楽しむ時間があってもいいだろうと思ったというのに当てが外れた。
 図書室自体は、まあ良い。蔵書数も公立の中学にしては結構なものだったし、検索用のパソコンもちゃんとある。しかし、その図書室という空間に問題があった。

(すっごい気が散る……)

 本のページをまたペラリと捲るが、さっきのページの内容なんて正直言って全然頭に入っていない。ちらと壁に掛かった時計に目をやるふりをして、本に集中できない原因を視界の端で確認する。

(やっぱり……見てる、よね。間違いなく)

 再び本に視線を戻しながら、何なんだと少しずつ募っていく苛立ちに軽く爪を噛んだ。
 友達に彼氏が出来たのを切っ掛けに火曜限定で図書館に通うようになったその日から、ずっとだ。私は今まで感じたことのなかった視線というものを確かに感じていた。
 カウンターに座り、気だるそうに頬杖をついている男の子。おそらく名前は財前光。特徴的な5色のピアスをしているところを見るに、まず間違いないはず、だと思う。友人達から漏れ聞く話によると、全国大会の常連だというテニス部のレギュラーらしい。私には「へー、テニス上手なんだねぇ」くらいの認識しかないが。
 そんな全然関わりのない人間の間でも偶に話のネタにされる程度には校内の有名人である財前君は、何故か私が図書室を訪れる度にじっとこちらを見てくるのだ。見るというより観察という方が正しいかもしれない、なんて思ってしまうほど、じぃっと。

(私、何かしたわけ……?)

 これだけ見られているんだから当然理由くらいあるんだろうが、皆目見当がつかない。初めて図書室に来た時から見られている気がする。もしかして“そう言い表した方が正しいかも”とかそういうことじゃなく、本当に観察してるとか? 趣味・人間観察、みたいな。それならそれで私以外の人間も是非見てやって欲しい。私ばっかり観察されて居心地悪い思いをするなんて不公平だ。
 パラ、とページを捲っては頭に入らない文字の羅列を視線でなぞる。観察するように見られている以上ただ漠然とページ全体を眺めているだけでは実は読んでいないということがバレるかもしれない、なんてさっきから余計な気ばかり遣っている。別に読んでないことぐらいバレても問題ないはずなのに、一度始めてしまった本に熱中するふりはなんだか今更止められなくなっていた。

(落ち着かない落ち着かない落ち着かない)

 見られている、という意識があるので、変にそわそわするのもはばかられる。それでもつい動いてしまうのは止められず、私は耳に掛けた髪が落ちてくるのを頻りに直したり、意味もなくスマホの画面をチェックしたり(そしていつも見るだけでは不自然なので偶にLINEの返信でもしているような仕草をしてみたり)を繰り返していた。

(ていうか、ガン見しすぎだから!)

 余所見くらいしろよ! と心の中で突っ込むが、視界の端の財前君は依然としてこちらを見たまま微動だにしない。
 この際、私の自意識過剰オチとかどうよ? もの凄い、それこそほんとに顔から火が出るほど恥ずかしいだろうけど絶対そっちの方がいい。そっちの方が楽。ほんとにこれが私の先にある何かを見てるとかだったらお弁当食べる時のネタとして使おう。大体こういう系の話は秘密にして自分一人で恥ずかしさに悶えるより、人に話して笑ってもらった方が救われるものだ。

 でもその可能性も低いんだろうなぁ、と本の角を指先で弄りながら小さく溜め息を吐く。私は自分の中で特に指定席とかつくっていないので毎回座る席が違う。その都度財前君が私の周りの何かを見ているというのも考えづらい。ので、十中八九観察の対象は私なんだろう。多分。
 私ってそんなに変なとこあるのかな。休み時間中ずっと観察してても飽きないほど? うわ、直すためには教えて欲しいけど、そんなんできれば知りたくない……!

(もういっそ思いっきり目、合わせてみようかな。いい加減本も読みたいし、借りたいし……)

 私は数ヶ月に渡り週1で図書室に通っているが、ここで本を読めた試しもなければ、借りられた試しもなかった。仕方がない、だってカウンターにいるのが財前君だけなんだから。借りづらすぎる。他に火曜のカウンター当番はいないのか畜生!
 まったく、“図書室に通ってるのに図書室の本を1冊も読破できていない”なんてこと家族が知ったらどんなに驚くだろう。本に夢中になるあまり夕飯を食べるのを忘れて、いつも怒られているくらいなのに。

(そうだ、そうしよう。頑張れ! 中学生で既にピアスじゃらじゃらなのはちょっと怖いけど、相手は後輩だぞ!)

 よし、と自分に気合を入れて、開いていた本をパタンと閉じて立ち上がる。
 向こうに何か真意があるなら目が合えば何かしらのアクションを期待できるし、違うなら普通に目を逸らすだけなはず。さあ、この居心地の悪さに終止符を!
 頑張れ頑張れ。大丈夫、ピアス怖くない。そう心の中で唱えながら、パッとカウンターの方を向く。その途端、バチリと音がしそうなほどしっかりと視線が噛み合った。
 初めてしっかりと見据える財前君の目つきは予想通り鋭い。そう、そうなんだよ、ピアス以外にもこの目つきが私を怖気づかせるんだよ……! 遠目で見ても目つきが悪いのが分かるくらいだもん、真正面からそれを受けたら私みたいなビビリは当たり前にビビってしまう。しかも財前君は顔整ってるから変に迫力があるし……美人が怒ると迫力あるという定説は本当だったわけだ。
 内心でヒィ! と小さく悲鳴を上げつつ目を合わせたままそんなことを考えていると、数秒の間の後に「な、先輩」と財前君もやはり目を合わせたまま口を開いた。

「はっ、はい!」
「……それ、ええ加減借りはったらええんとちゃいます?」

 それ、と私が抱えている本を指で示しながら、いつも通りの気だるげな仕草で軽く首を傾げる。続いて紡がれた「ここ来ると絶対それ読んでますよね。何ヶ月も、ずっと」という言葉に、私は思わずハッとした。

 馬鹿か私は……!!!

 観察する勢いで見られてる、とか言いつつ読む本が最初に来た時から変わってないってどういうこと……!? 頭に入らない文字の羅列を必死で追うより先に気にするとこあるだろこの阿呆! なんとなくこの本持って席に着くのが習慣化しちゃってて、全然気付いてなかった……! どうしよう、そりゃ変だと思うよね週1とはいえ何ヶ月も図書室通ってるのに借りもせずにずっと同じ本読んでたら!
 やっべーやっべー、と内心で大騒ぎしつつもそれを表に出すわけにもいかず、私は「じゃあ、貸し出しお願いします……」と言いつつへらりと笑っておいた。私は日本人、困った時には曖昧な笑顔だ。

「…………つか、突っ込まないんスか」

 気まずさに視線を床に下げながらカウンターに向かって歩き始めると、財前君が唐突にそう言った。頬杖をつき直す財前君の視線は、もう私に注がれてはいない。

「え、あの、何が?」
「何でそんなん知っとんねん、言うて」

 普通聞くんやないッスか? と尋ねられ、何を言うかと思えば、と思わず怪訝そうに彼を見た。そしてそのまま、あまり考えることなく「だってあれだけ見てれば……」と思ったことを口に出してしまった。そのことを後悔したのは、「へぇ……」という財前君の呟きを聞いた後だ。時、既に遅過ぎ。

「やっぱ、見られとるっちゅうことは気付いとったんスね。そんでずっとシカトしとくとか、先輩、結構いけずなんや」
「いや、別に無視してたとかでは……」

 ちら、とまた視線を寄越されて、思わずカウンターに向かっていた足が止まった。すると人差し指でカウンターをコツコツと鳴らしながら「早よ持ってきて下さい」と急かされる。

「……じゃあ聞くけど、何で、あんなに見てたの?」

 カウンターに着き、財前君に本と差し出しながらそう聞くと財前君は無言のまま私の手から本を受け取った。慣れた手つきで本の裏側に貼り付けられたバーコードを機械で読み取りながら、「決めとったんスわ」と小さく零す。

「こっち向いたら声掛けよ、て」

 そう言いながら、私が本と一緒に出した図書カードをゆっくりとした動作で摘み上げる。それを目の高さまで持ち上げると、財前君は満足そうに目を細めた。

「早よ本借りて下さい、って言うたろ思て」

 カードに向けていた視線をこちらに流しながら、「カード出せば名前分かるやろ?」と緩く口元を引き上げる。

「ようやく分かったわ。先輩?」