どうか君だけを愛させて



 立ち並ぶビル群の中にある、マンションの一室。
 上層に位置するその部屋から見下ろす夜景は美しく、星屑を鏤めたような、なんて陳腐な言葉が浮んでくる。
 月が明るい。真円にはほんの少し足りない、幾望の月。照明を点けずとも、カーテンを開けておけば降り注ぐ月明かりで十分過ごせるほどに明るかった。

 月光を受けて煌くグラスの氷というのも中々綺麗だし、今日は今年の異常な冷夏の中では珍しく暖かで、こうして夜に窓を開けていても体を冷やすこともない。火照った頬を冷やすのにちょうどいい、涼やかで過ごしやすい夜だ。
 隣にあの子がいれば『綺麗でしょ?ここから一緒に夜景を眺めた子なんて君が初めてだよ』なんて言って口説くのに。彼女には疑われるかもしれないけど、本当のことだ。この部屋から夜景を眺めた子なんていない。夜中に僕の部屋に女の子がいたなら、どうせやることやってるだけだろうから。

「それともあれかな、『今夜は月が綺麗ですね』とか言った方が効果的かな?そういう叙情的なの好きそうだし、彼女。あー……でも言葉通りに取られちゃうか」

 頭は悪くないけど鈍いからなぁ、なんてぼやきながら、それでもこの場に合った口説き文句を意味もなく考え続ける。しかしながら残念なことに今の僕は一人きりで、その言葉を向けるべき人はきっと今頃夢の中だ。
 それに彼女がここにいたらいたで、今の僕にはこんな軽口を叩いている余裕はなかっただろう。情けなく弱音でも吐いてしまうに違いない。今現在、僕の気分は最悪で、今夜はそこから浮上することはできそうにない。一人でいる分には酔いに任せて馬鹿な独り言を言うこともできるけど、彼女がいればきっと縋ってしまう。


 数時間前、マンションの前で交わしたやりとりが思い出される。バイト帰り、いつも通り彼女を家まで送り届けた後で自宅に戻ると、そこに1人の女の子が立っていた。
 身長は少し低めで、女の子の中でもちょっと小柄な方。長い髪を背に流した可愛らしい子だった。気丈そうな眉を不安そうに歪めて、緊張に拳を強く握って。
 見た瞬間、心が沈んだ。同時に、服を着たまま水の中に入ったように体が重くなった。だって、このマンションの前で誰かを待ってる女の子の目的なんて、1つしかない。


 それからの一連の流れは、バイトの後僕が彼女を送っていくのと同じように、本当にいつも通りだった。好きです、付き合ってください、お断りします、で即終了。だって彼女いるんだもの。しかも、今回に限っては、本気で大事な。

 なのになんで皆、断られると分かっているはずのその言葉を告げに来るんだろう。
 フリーの状態でなら、女の子からの告白は余程のことがなければ受け入れている。でも特定の女の子と付き合っている間は、他の誰が告白してこようとお断り。それは高校の頃から何年も続いている僕の不文律であるはずなのに。自分ならば、とでも思うんだろうか。
 それと同じように、もう一つ疑問に思う。なんで僕は、未だに慣れることができないんだろう。
 その何年も続くサイクルの中で、何度も何度も、自分の中の何かが擦り切れるほどに繰り返されたやりとりだというのに。いい加減慣れればいいのに。何も感じなくなればいいのに。そうしたら楽なのに。

「あーあ……ほんっといい月。ほんと、明るい。……もっと薄暗くてじめっとしてた方が、落ち込みやすいんだけど」

 そうしたらもっとみっともなく泥酔して、前後不覚で何時の間にか眠ることもできたかもしれない。明日もバイトで、望み通りこの空が暗雲に覆われていたとしても到底そんなことはできないことも十分に分かっているけれど。
 こういうことがあると、夜が酷く長く感じる。早く朝が来て欲しいのにどうしても寝付けない。朝になってバイトに向かえば、すぐ彼女に会えるのに。会えると言っても、仕事をしにいくのだからそれが終わらなければ満足に会話もできないが、それでもいい。彼女と顔を合わせることさえできれば、この胸の重みは今よりずっと軽くなる。

「あー、会いたい……ほんと会いたい会うだけでいいから顔見るだけで」

 グラスに残っていたアルコールを煽っては、息をするように欲求を吐き出す。それは言葉にすればするほど強くなっていくような気もしたけれど、頭の中だけに留めておくには少し酔いが回りすぎていた。しかし、欲求のままに携帯へと手を伸ばしてしまうには逆に少しばかり足りていない。

「とか言って、そんなの完全に嘘だよねぇ……。会ったら声聞きたいし抱き締めたいし色々したいし」

 会って、あの瞳を見つめたい。真正面から、逸らすことなく、あの翡翠を。うっとりとした恍惚の色ではなく、戸惑いや恥じらいに潤む澄んだ翠色が見たい。
 声が聞きたい。鈴を転がしたような、というと少し陳腐な気がするが、媚びを含まぬあの清廉そうな響きはまさにそれだ。あの甘いけれど甘ったるくはない声で、ただ僕の名前を呼んでほしい。
 華奢な体を壊さないよう、優しく抱き締めてやりたい。腕の中に閉じ込めて、彼女の香りで肺を満たしながら横になれれば、こんな夜でもきっと深く眠れるのに。

 彼女に対する欲求は尽きることなく生まれ、溢れて、時に自分ではどうしようもなくなる。視界の端に移る携帯が次第に存在感を増しているように感じるのはきのせいだろうか。
 この時間だと彼女はきっと寝ているだろうから、流石に電話はできない。でも、メールくらいなら、許されないかな。こんな時間ではそれもやっぱり迷惑だろうか。
 気付かなくてもいい。というより、気付いてくれない方がいい。彼女の眠りを邪魔したいわけではない。でもこのままでは眠れない。ただ何か、彼女と繋がっている実感がほしい。

 短い溜め息の後、誘惑に負けて携帯へと手を伸ばす。メール画面を開いて、アドレス欄には勿論彼女のアドレスを。それから、短く彼女への愛を綴った。
 メール編集画面をぼんやりと眺めながら、ふっとまた溜め息をつく。無機質な文字によって捧げる愛の言葉はなんだか薄っぺらで、こんなもので想いが伝わるなんて自分でも思わない。
 でもそれでよかった。今はただ、彼女のもとへ自分の想いの形が届くのだと思えるだけでよかった。それだけで、少しだけ胸が凪いだ。

 月の輝きで、今日はあまり星は見えない。都合よく流星が見えることもない。
 けれど願わくば、僕の言葉が少しでも君の心に響きますように。
 祈るようにしてそっと送信ボタンを押した。





(星にじゃない、君に祈るよ)