蒼の眩惑



 角度を変えてはゆっくりと唇全体を食まれ、微かな水音と共に舌が絡まる。表面を擦り合わせるみたいに舐められて、形を確かめるように舌先がその輪郭を辿って、ついでに歯列も撫でられて。
 ふと薄く目を開けてみるとちょうど同じタイミングで開かれた瞳とかち合って、相手の口元がゆるりと笑みの形に歪んでいくのが分かった。ぼんやりと滲む視界の中、蠱惑の色に煌めくアクアマリンを間近で見つめていると確かに恍惚とした気分になるような気がする。その感覚を振り切るようにもう一度目を伏せると、いっそう深く噛み付かれた。

「ん、ふ……ぅ……」

 苦しくなって微かに眉を顰めると気遣うように少しだけ唇が離れる。けれど一呼吸置くと再び熱い舌が歯列を割って忍んできて、またすぐに息苦しさに喘ぐことになる。
 そんなことを何度も何度も繰り返して、唇がふやけてしまうんじゃないかと思い始めた頃。後頭部に添えられていた手がするりと髪を梳くように動き、視界を覆っていた影がゆっくりと遠ざかった。

「ん……、どうかな?」
「……どう、って……何がですか…………」

 呼吸を整えようと努めながら聞き返せば、「ああ、ごめんね。ちょっと苦しかった?」と軽い謝罪と共に笑みが返される。

「そろそろそういう気分になってくれたかな、ってこと」

 ね、どう?と濡れた唇を舌でなぞりながら目を細めるその顔は自信ありげで、なんだかやたらと負けたような気分になってしまう。そんな風に敗北感を感じるということは、多少なりと彼の言葉を肯定する気持ちがあるからだと自分でも気付いているから、余計にだ。

「どうって……別に、そんな気には……」
「ふうん……そう?残念」

 うっとりした顔で僕の事見てるから、ちょっと期待したんだけど。
 そう言いながら薄く笑うイッキさんは言葉の割にちっとも残念そうには見えず、見透かされているようでなんとなくいたたまれなくなった。

 私がイッキさんのマンションに、転がり込むようにして越してきた日から数週間。同じ部屋で生活をするようになってからというもの、イッキさんは8月の終わりに宣言した通りこうして私を『その気』にさせようとあれこれと手を尽くしてくる。
 「別にいいじゃない、これくらい。今の僕らっていわば蜜月でしょ?」と楽しげな様子で色々と試してくるイッキさんは、最近ではその気にさせるためというよりも一々わたわたと戸惑う私の反応を楽しむ目的で仕掛けてきているような気がするのは、多分気のせいではないはずだ。

 今だってからかうなという抗議の意味を込めて私が軽く睨むような視線を送っても、そんな膨れないでよ、なんて言いながら笑みを深めるばかり。私の右手を攫って、戯れに指先へと口付けてみせるイッキさんは実に楽しそうな顔をしている。

「じゃあさ、こういうのはどうかな」

 指先に唇を押し当てたままそう呟いたかと思うと、その意味を問う前にイッキさんは捉えた私の指先をぱくりと銜えることで『こういうの』という言葉の内容を示してみせた。
 驚きに思わず「ひゃ!」と情けない声が漏らした私に、指先に食らいついた口元が愉快そうにつり上がっていく。そのまま、ふふ、と笑うものだから吐息が直に当たってなんとも言えずくすぐったい。ぞわぞわして咄嗟に手を引き寄せようとするも、ぐっと腕を掴む手に力が込められて簡単に阻まれてしまった。

「ちょ、イッキさん……!」
「なあに?」
「なあにじゃ、なくて……何してるんですかっ」
「なにって、キスだよ」

 キスはしていいってやくそくだったよね?と、指を銜えているために少し舌足らずな発音で答えが返ってくる。イッキさんがそうして言葉を紡ぐ度にやわやわと食むように歯が当たり、酷く居心地が悪い。

「キスって、これのどこが……」
「同じじゃない?ただ絡めるのが君の舌から、指に変わっただけで」

 一旦指先から口を離してそう嘯き、だからこれはキスの範疇だと彼は笑う。そんなの詭弁だと思ったけれど、再び指先を口に含まれたことで反論の言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。
 ざらりとした感触に、身が竦んだように震える。熱い舌に指の腹や爪をなぞられ、関節を軽く甘噛みされて。爪と皮膚の間に割り入るように舌先を押し付けられると、なんだか怖いような、でも恐怖とは少し違うような変な気分になってくる。

「あ、の……イッキさん、もう、やめてください……」

 控えめに呼んでみたところで、簡単にやめてくれるはずはなく。その訴えに対する返答はなく、代わりに湿った水音だけが返ってくる。はあ、と時折イッキさんの唇から零れる吐息に、キスの余韻で元から紅潮していた頬が更に熱を持っていくのを感じた。
 銜えられた指はどんどん深く飲み込まれていき、伸ばされた舌先で水かきの部分まで丁寧に舐め上げられる。ちゅ、と音を立てて吸い上げられると、ぞくりと背中に何かおかしな感覚が走ったような気がした。

「イッキさん……くすぐったい、ですから……」
「……それ、ほんと?」

 その感覚を誤魔化すように掠れた声で呟くと、伏せられていたイッキさんの瞳がふと私を捉える。透明度の高い海の色をしたそれは薄っすらと潤み、滲んだような輝きを放っていた。

「……ほんとに、くすぐったいだけかな」

 ゆっくりと指を這う紅に、私を見据える蒼に、魅了されたようにぼんやりしてしまう。頭の芯が熱を持ったみたいだ。思考能力が低下する。怖いと思うのに、駄目だと思うのに、跳ね除けられず為すがまま。

「ねえ……どう?今どんな気分か、教えてよ」

 ああ、いつから私は、この瞳に抗えなくなってしまったんだろう。





(僕は上手に、君を誘惑できたかな?)