君がくれる、幸福な勘違い



「あの、イッキさん……」
「ん?なに?」
「そろそろ、離してくれませんか?」

 腕の中からこちらを窺うように向けられる目に視線を合わせ、どうして?と目だけで問う。するとシアは困ったように眉を寄せながら、か細い声で「流石に、恥ずかしいです……」と呟いた。

 今年は異常な冷夏だった上に、もう9月下旬に差し掛かっているため気温は下がる一方だ。特に夜になると冬のように冷え込んで、誰も居ない部屋は床や壁まで芯から冷え切ってしまう。一緒にバイトから帰ってきた時、シアも部屋の寒さに身震いしていた。
 勿論帰宅してすぐにエアコンはつけたけど、キッチンまで繋がったワンルームはそれなりの広さがあって簡単には暖まってくれない。

 それはまあ仕方のないことなんだけど、だからといって寒さに震える恋人を放っておくのも可哀想だ。……なんて理由から『寒さをしのぐため』という名目を得て、僕は彼女を後ろから抱きかかえるような状態のままリビングでゆったりと過ごしていた。

「もう部屋も暖まりましたし……」
「うーん、そうかな。まだ肌寒くない?」
「十分暖かいと思います」
「そう?でも僕はまだ寒いから、もうちょっと付き合ってよ」

 ね?と耳元で囁くようにしながら、お腹の辺りで交差させた手に軽く力を込める。ついでにちゅっと軽く耳に口付ければ、シアはびくりと身を震わせながら小さな悲鳴を上げた。

「もう、イッキさん……!」
「はは、ごめんね」
「絶対悪いと思ってないでしょう……」
「うーん……まあ、そうだね。だって僕達恋人同士なわけだし、このくらいはいいでしょ?2人きりなんだしさ、そんなに恥ずかしがることもないと思うんだけど」

 僕のお姫様は何が不満なんだろうね?とからかうように言いながら軽く頬をつつくと、「だって、」と少し唇を尖らせる。
 そんな様子を見ていると思わずそこに噛み付いてしまいたい衝動に駆られる。けれどこのタイミングで実行すれば、多分腕の中から逃げていってしまうだろうから今は我慢だ。そんな考えはおくびにも出さず、言ってごらんと先を促す。

「その、あんまりくっついてると、落ち着かないです」
「へぇ……こうしていて落ち着くって言われるのもいいけど、落ち着かないって言われるのもいいね。意識しちゃうってことでしょ?」
「それに、イッキさんが喋る度に息がかかってくすぐったいですし」
「君、結構耳弱いもんね。OK、善処します。くすぐったくないようにする」
「えっと、あと食事……」
「今日はお昼休憩遅めだったし、帰ってくる時にまだお腹減らないねって話してたじゃない」
「……寒いなら、コーヒーでも淹れましょうか」
「うん、ありがと。でもこのままでいてくれた方が暖かいかな」
「…………」

 ちょっと困ったように眉を寄せて口を噤んだシアに、終わり?と尋ねると少しムッとしたような表情が返される。きっと睨んでいるつもりなんだろうけど、見上げるようなそれはただの上目遣いにしか見えない。

「何で笑ってるんですか……」
「あれ、笑っちゃってるかな。ごめんね?」

 ただ可愛いなって思っただけなんだけど、と素直に口にすればシアは益々眉を寄せて不服そうな顔をしてみせる。

「イッキさん……全然離す気ないですよね」
「ん?うん、そうだね」
「そうだねって……」

 僕の返答のせいでシアの唇がまたツンと尖り出したのを眺めながら、どうしようかなぁ、なんて考える。そうしているのを見ていると、やっぱりキスしたくなってしょうがない。
 したいな、してもいいかな、と想いを込めながらじっと見つめていると、次第に彼女の瞳がうろうろと彷徨い始める。

「ね、シア、こっち見て?僕の方」

 頬に手を添えてこちらを向かせ、更にじっと見つめる。少し頬を染めて居心地悪そうにしているあたり、僕が今何を思っているかはもう大体察しているんだろう。それでもこうして大人しく腕の中に収まっているということは、一応いいってことなんだろうか。
 多分そうだよね、と都合の良いように解釈することにして、お互いの前髪が触れ合うくらいまで顔を寄せる。そのままの距離で彼女が1つ瞬きをする時間だけ待って、それでも離れていかないことを確かめて。また少し顔を寄せると彼女の長い睫毛が伏せられるのが分かって、そうして漸く唇を触れ合わせる。

 何度か啄ばむように繰り返して、さっきよりも少し深く口づけても、やっぱり逃げない。案外この瞳って君にも効いてくれてるのかな、なんて都合の良い妄想さえ浮んでくる。
 そんな妄想ができるくらい、今の僕は君に近い存在で、君は僕に色々なことを許してくれる。じっと目を見て、お願いすると、なんだかんだ言いながら大抵のことを許してくれる。受け入れてくれる。
 それってなんて幸せなんだろう。効けばいいのにと何度も思った力が、もしかしたら効いてるのかも、なんて馬鹿な勘違いができるなんて。そんな勘違いを起こせるほど、受け入れてもらえてるなんて。

「……はぁ」
「……イッキさん?」
「ん……、何でもないよ。気にしないで」

 ただちょっと、幸せに浸ってるだけだから。





(この調子でもっと色々許してくれないかなーと思うのは、流石にちょっと贅沢かな?)