君の隣は僕のもの



 
「美味しい?」

 とある休日、駅前のカフェで軽くランチを食べた後のことだった。
 食後のデザートに私はミルフィーユ、イッキさんは小さなティラミスを頼んで。イッキさんは運ばれてきたケーキに手をつけることなく、ゆったりと微笑んでそう私に尋ねた。

「?はい、美味しいです」
「そう、良かった。シアは美味しそうに食べるよね」

 特に甘いものだと、と目を細めながら、イッキさんは静かにコーヒーを傾ける。
 何がというわけでもないのだけれど、じっとこちらを見つめるアイスブルーの瞳にどこか居心地の悪さを覚えて、せっせとフォークを口に運んでいた手がなんとなく止まってしまった。

「イッキさんは食べないんですか?」
「ん?うん、食べるよ」

 促すようにそう言えば、スプーンを手に取りティラミスを一口だけ口にする。そうして「うん、美味しいね」と呟きもう一掬いしたかと思うと、イッキさんはそれをおもむろに私の口元へと運んできた。

 え、と一瞬固まって、ちらりと視線だけで周囲を確認する。
 最近できたばかりのこのカフェは、ランチが美味しいと評判だ。昼時の店内は沢山の人で賑わっていて、その中にはいつもどおりイッキさんにちらちらと視線を送る女性だって何人もいる。

「え、っと……」

 ちら、と目の前に差し出されたスプーンに目をやり、それからイッキさんへと視線を移す。今の私は明らかに困った顔をしているはずだけど、イッキさんはただにこりと微笑み返すだけだった。
 どうしようか迷ってうろうろと視線を彷徨わせていると、スプーンの先で急かすようにちょんと唇を突かれる。どうにも引いてくれなさそうな雰囲気に負けて、パクリとスプーンに噛み付くと、イッキさんは目を細めて楽しそうに笑った。

「美味しい?」
「、おいしい、ですけど」

 恥ずかしさから、先ほどと同じ問いに少し渋るようにして答えると、形の良い唇が更に深く笑みを刻む。

「なんですか、もう」
「いや、ふふ……照れてるなぁって思って。はい、もう一口」
「……照れてるって分かってて、なんで続けるんですか」
「そりゃあ、君が可愛いからでしょ」

 少し唇を尖らせて文句を言うも、「ほら、いいから口開けて。あーん」と構わず続けるイッキさんに私はまた負けを認めるしかなく、渋々と薄く口を開いた。
 少しずつ熱を帯び始めた頬にはなるべく気付かないふりで、口内に広がる柔らかな甘みに意識を集中させる。クリームよりも、向けられる視線や声の方が溶けそうに甘い気がするなんて、そんなのはただの気のせいだ。

「あーん」
「……私はもういいですから。イッキさんが食べて下さい」
「いいじゃない。シア、ティラミスも好きだよね?」
「好きですけど!……イッキさんの分まで食べたら太っちゃいます」

 今は特にダイエットを意識しているわけでもなかったけれど、言い訳するようにそう言うとイッキさんはふうん?と意味ありげに呟いて、「ああ、そういえばさ」と何か思いついたような顔で楽しそうにまた口を開いた。

「食欲中枢とかってあるでしょ?あれって、性欲中枢と隣り合ってるらしいね。だから性欲と食欲って似てるんだって」
「え、ちょ、急に何の話ですか!」

 唐突に話し出されたおかしな話題にびっくりして、なんとなく逸らしていた視線をイッキさんに戻し、その顔を凝視する。
 ぱちぱちと目を瞬かせる私にイッキさんは「はは!そんなに慌てなくても、ただの世間話だよ」なんておかしそうに笑っているけど、驚いても仕方ないと思う。誰だって急にそんな話題を振られるとは思わないし、ましてやこんな人気の多い場所でするような話でもない。

「それでね、男は摂食中枢と隣接してて、女の子は満腹中枢と隣接してるらしくて」
「はあ……そうなんですか」
「うん、そうなんだよ。だからね?」

 早くこの話を終わらせたい、という気持ちを隠すことなく、おざなりな言葉を返す私なんて気にもとめずに、イッキさんはにやりと笑う。一緒に暮らすようになってから目にすることが多くなった気がする、性質のよろしくないその笑い方。
 嫌な予感に私が身を引く前に、イッキさんは少し身を乗り出して私の耳元にそっと唇を寄せる。そうして「ダイエットなら、僕が手伝ってあげようか」と低く囁いた。

「え……?」
「女の子ってね、性欲中枢を満たしてあげると満腹中枢も一緒に刺激されて、空腹感が抑えられるんだって」

 意味、分かる?
 口角をつり上げるようにして笑うイッキさんに一瞬思考が停止するも、すぐに理解してカッと頬が急激に温度を上げた。こんな時間にこんな場所で、しかも衆目を集めている中なんてことを言うのかと思わず「イッキさん!」と強く名前を呼んだけれど、イッキさんはやっぱり楽しそうに笑うだけで。

「く、……あはは!今度は怒ったね」
「あ、たりまえです!急に何言い出すんですか!こんなとこで!」
「ふふ……、いや、うん、冗談だよ。ちょっとからかいたくなっただけ」

 くすくすと押し殺すように笑いながらイッキさんはコーヒーを飲み干して、最後に残っていたティラミスをまた私の口へと運ぶ。もう流石に諦めて差し出されるそれを大人しく口にすれば、良い子だねというように微笑みが返された。

「…………イッキさん、一緒に住むようになってからなんか意地悪になりました」

 伝票を持って席を立ったイッキさんの後を追いかけながら、「ご馳走様でした」という言葉のついでになじるような調子でそう言ってみる。
 少し睨むようにしてじっと見上げると、苦笑混じりの困ったような顔で「ごめんね。怒ってる君も可愛いから、つい」なんて返されてしまった。

 ちょうど会計を済ませている時にそんな恥ずかしいことを言われたものだから、レジに立つ店員さんの目が気になって思わず頬がまた紅潮してくる。次いで隣からクッと小さく笑いが零れたのを聞いて、無言でその背をバシリと叩いて私は一足先にお店の外へと逃げ出した。
 ごめんって、と背中を追いかけてくるその声は、やっぱり笑いが滲んでいて。

「もう、笑わないでください!」
「うん、分かった。もう笑いません」
「……嘘、口元笑ってます」
「ははっ、いいじゃない、笑顔くらいは許してよ」

 笑った笑わないと戯れるように言い合いながら、手を繋いでマンションへと続く道を辿る。その道すがら、不意にイッキさんが「でもさ、仕方ないと思うんだよね」と言いだして、何がですかと問えばイッキさんは「僕が意地悪になったらしい、って話」と少し意地悪そうな顔を作ってみせた。

「これからずっと一緒にいられるとなれば、今度はもっと違う君の顔を沢山見たいと思っちゃうんだよ。人間って欲張りな生き物だし、その中でも僕なんかは特に強欲な方だから」
「……そんなこと言って、あんまりやりすぎると逃げちゃうかもしれませんよ?」

 からかうのはそのためだというイッキさんの言葉に、ちょっと繋がれた手を離そうとするふりをしてみる。するとすぐさま絡んだ指先にぎゅっと力が込められ、そのままイッキさんの方に軽く引っ張られて。

「意地悪しすぎて好きな子逃がすなんて真似、僕がするわけないじゃない」

 こめかみの辺りにちゅ、と柔らかく口付けて囁くものだから、またじわじわと頬が熱くなってきてしまった。ちょっとした意趣返しのつもりがとんだカウンターをくらって絶句する私に、イッキさんはしてやったりの表情で楽しげに笑う。

「僕も大概馬鹿な男だとは思うけどね、折角堂々と君を独り占めできるこの立場をみすみす他の男に譲ってやるほど愚かではないつもりだし」

 君が本当に逃げ出したくなるようなことはしないから安心してよ、と蜜を溶かしたような声で囁くと、今度は頬に唇を寄せて。次第に唇へと近づいてくるそれに抵抗するように少し胸を押し返すも、誰もいないからと優しく腕を押さえつけられてしまった。

 なんだか今日は振り回されてばかりで、終始負けっぱなしな気がする。でもそれを悔しいと思っていたはずなのに、君のこんな顔見ていいのは僕だけでしょ?と懇願するように問われると、どうしてか素直に頷いてしまうのだ。

 どうしてかなんて、この幸せそうに綻ぶ顔がそのまま答えなのだと知っているけれど。





(だから貴方も言って下さい。私だけだって)

アムネシアお題消化型企画『avec toi』参加作品
お題「君の色んな表情を見るのは自分だけでありたい」