頂門に愛の針



 
「ん、ふ、ぅ……!」

 こっそりと、密やかに連れ込まれた男子更衣室。自分が使用しているものと全く同じようでいてどこか雰囲気の違う、普段足を踏み入れる機会などあるはずもないその部屋の様子を目にしたのはほんの一瞬だった。
 バタンとドアが閉まる音と共に引き寄せられたかと思えば熱い唇で己のそれを塞がれ、口も視界も体でさえも自由が利かなくなる。性急に歯列を割られシアは反射的に身を引きそうになったが、頭を固定されてしまえばもう抗う術はない。互いの舌を擦り合わせられる度に、シアは苦しげな吐息を零すことしかできないでいた。

 互いの衣服が擦れ合う、衣擦れの音。
 どちらのものともつかぬ湿り気を帯びた吐息。
 時折零れる、微かな水音。

 そうした音のすべてに聴覚を犯されて、どんどん思考が溶け出していく。初めこそささやかな抵抗を示していたシアの腕も、何時の間にか縋るようなそれへと変わっていた。
 このままではいけないと思いつつも、何も考えられなくなってくる。ここはバイト先の更衣室だとか、今はまだ勤務時間内で、壁を隔てた向こう側では同僚たちが働いているということだとか。
 体中に感じる布越しの体温に、全ての思考が攫われていきそうだ。

「……ん、ぅ……は、イッ……キさん……!」
「っ、は……分かったよ、……もう、おしまい」

 僅かに残る理性を掻き集めて息継ぎの合間に抗議の声を上げると、ほんの少しだけ唇が離され、漸く思い切り息を吸い込むことができた。このままでは理性どころか、脳へと送られる酸素までなくなってしまいそうだった。
 何故こんなことになっているのか、シアとしてはすぐにでもイッキを問い質さねばならないところだが、今はただより多くの酸素をと肩を揺らすよりほかない。

「これでちょっとは、懲らしめられたかな……?」

 唇を離したといっても寄せられた顔はそのままで、唇に吐息がかかるどころか、喋る度に掠めるようにして唇が触れ合う。
 その感覚にシアはまた思考を乱されそうになるが、今の言葉は少々聞き捨てならない。荒い呼吸を整えながらどうにか何のことですかと問えば、イッキは「何って、さっきの客のこと」と短く答えた。

「え……?あ……でも、あれは……!」
「うん、分かってる。君は悪くない。君が悪いわけじゃないけど、もっと早く僕のこと呼べなかったの?」

 性質悪いのが来たらすぐ周りに言うようにっていつも言ってるよね?と咎めるように言及され、思わず言葉に詰まる。あまりに至近距離からじっと見つめられているせいで、余計に言葉が出てこない。

「確かに接客なんて我慢するのも仕事みたいなもんだって分かってるけどさ、やっぱり自分の彼女が変なのに絡まれて気分良いわけないから。お願いだから無理なんかしないでよ」

 そう言いながらまた少し唇を食まれて、それから漸くイッキの顔が遠のいていく。いい加減仕事に戻らないと本当に不味い。フロア担当が2人もこんなところで油を売っていては、他の従業員が困ってしまう。しかし。

「店の方は僕がやっとくから、シアは少し休憩しなよ。……その溶けたような顔、治ったらおいで」
「……!!!」

 まるでシアの考えを読んだかのようなタイミングで囁いたイッキが、朱に染まったシアの頬を指の背でするりと撫でる。更に赤みを帯び始めたその頬にイッキは目を細めると、じゃあ先に行くね、と残して更衣室から出て行った。

「っ……、だ、誰のせいで……ああもう……!!」

 文句を言おうにももう既に相手に声は届かず、ただの独り言へと変わり宙へ霧散する。残されたシアがさしあたってできることと言えば、暫くは紅潮したまま戻りそうにない己の頬との戦いだけだった。





(分かってると思うけど、客なんかにその顔見せたら怒るからね?)