君しか知らない



 くちゅりと微かな水音を立てながら、円の舌が丁寧に口内を這っていく。歯列をなぞりながら上顎や舌の裏側、その付け根に至る隅々まで丹念に舐められて、撫子は円の腕の中でふるりと小さく震えた。頭の芯がジンと痺れるようなこの感覚は、円と付き合うようになって初めて知ったものだ。
 長い口付けに撫子が息苦しさを感じ始めると、円は見計らったようにふと唇を離して今まで貪っていたそれをぺろりと舐め上げる。そして仕上げにちゅっと軽く唇を重ねることで、長らく続いたその触れ合いを終わらせた。

「相変わらず息継ぎ下手ですね、あなた」

 お互いの睫毛が触れそうな距離のまま、円が囁く。僅かに呆れを滲ませた顔でふっと笑われて、撫子は「うるさいわね」と悔しげに呟いた。
 同時に下からじとりと睨み上げてみるが、まだ顔の赤みが引いていないことが自分でも分かる。故に効果は望めないだろうことも撫子には分かっていた。しかし円が意地悪く口元を歪ませるのを見ると、どうにもそうせずにはいられないのだ。

「なんですソレ、サービスですか」

 予想通りそんな軽口と共に一笑に付され、「そんなわけないでしょ」と撫子はまた唇を尖らせることとなった。不満そうに突き出されたその唇にもう一度キスを降らせて、円はふと動きを止める。それから唐突に、「そういえば、撫子さんって歯並び良いですよね」と口にした。

「は……?何なの、急に」
「いえ、別に大した意味はありませんけど。前からこういうことする度に思ってたんですよ」

 息継ぎが下手だなっていうのの次くらいにですけどね、と意地悪く繰り返しながら円は指先でついと撫子の顎を攫うと、口内を覗き込むような形でまた少し顔を近づける。そんな円をぐいと押しやりつつ、そうかしら?と撫子はなんとなく歯列の裏側を舌でなぞってみた。
 そして下の歯を少し辿ってみたところで、撫子は思わず顔を赤らめる。ふと、円のそれを思い出してしまったのだ。それはただ単に歯並びを確認するためにしただけのことだったのに、その動きからごく自然に円を思い出してしまった。それがやたらと恥ずかしい。他意のない行為から、そんなことを連想してしまうなんて。

(何で私、円の舌の動きなんて、そんなもの覚えてるのよ。いや、確かに私達ももう付き合ってそれなりに長いけど、でも、そんな、舌の動きって!ああもう、何を考えてるの私は!)

 馬鹿じゃないの、と内心で盛大に自分を罵りつつ、恥ずかしさに暴れ出したくなる衝動をぐっと抑え込む。それから「何やってんですか、あなた」と冷静につっこんでくる円の胸を更に押しやって、撫子はなんとか体裁を整えた。こほん、と気を取り直すように咳払いをして、改めてもう少し考えてみる。

「ええと、そうね……あんまり自分で気にしたことはなかったけど……」

 なんというかまあ、言われてみればそれなりに整っているかもしれない。多分悪くはないだろうとは自分でも思う……が、取り立てて言うほどのものだろうか。そもそも基準となるものが分からないので、いまいち判断がつかなかった。
 だって自分のぐらいしか分からないし、と呟く撫子に円は「ま、元から良ければ特に気にするような機会もないんでしょ」と言いながら、何気なく己の歯列をべろりと舐めてみせる。なんとなく卑猥なそれ(円がやると余計に、である)に、撫子はやめなさいよ、と今度はその顔を軽く押し返した。

「まあいいじゃないですか、褒め言葉ですよ。歯並びが良いと美人に見えるって言うでしょう」
「美人に見える、って……。なんか引っかかるわね、その言い方」

 「美人だ」と断言する訳ではなく「美人に“見える”」と言われると、遠回しに実際は美人じゃない、と言われているようにも感じる。

「気のせいですよ。それに撫子さん、美人だなんて言われ慣れてるんじゃないですか?」
「社交の場でのお世辞なら、ね。小娘とはいえ『九楼』の人間だもの」
「……ほんと、あなたって馬鹿ですよね」

 あなたがそんなだから、ぼくはいつも気苦労が耐えないんですよ。ほんと、いい迷惑です。
 そんな恨み言のようなことを零しながら、円は撫子の目尻へと軽く口付けを落とす。言葉とは裏腹なその柔らかい感触に、撫子は反論すべく開きかけた口をゆっくりと閉じた。円は口では全然素直なことを言わないくせに、いつもこうやって態度で言葉を裏切ってみせるのだ。
 ずるいのよね、とひとりごちて撫子はまた少し唇を尖らせる。円がそれを聞けば「何言ってんですか、あなたも同じようなものでしょう」とすぐさま切って捨てただろうが、幸い内心で零されたそれが彼の耳に届くことはなかった。
 額に、鼻先にと、戯れにまた円の唇が降り注ぐ。

「……ん?…………ねえ、円、ちょっと」

 顔中に落とされるそれを抵抗にもならない抵抗をしながら受けとめていた撫子が、ふと考え込むように顎に手を添えて首を傾げる。少し気になったのだけど、と円を見上げるその瞳は何だか複雑そうで、そこには僅かに不機嫌な色が見て取れた。

「私の歯並びが良いっていうのは分かったけど、それって、何と比較して?」

 さっき口にも出した通り、撫子は歯並びなど自分のそれしかしらない。普通、歯並びなんて自分のものぐらいしかよく分からないものなんじゃないだろうか。
 ということは、円が言っているのは自分のそれと比較して?いや、でもそれにしては、円のそれは。

「何とって……そりゃ、自分のですけど」
「え、でも、円ってそんなに……」

 そう言いかけて、撫子は己の矛盾に気付きハッと口を噤んだ。慌てて途中で言葉を切ったが、円にはしっかりとその先の内容が分かってしまったらしい。目の前にある狐のような顔がにたりと性質の悪そうな笑みを浮かべる。憎らしいことに、へえ?とわざとらしく首まで傾げてみせた。

「撫子さん、ぼくのも分かるんですか?歯並び」
「う……る、さいわね……」
「さっき確か、自分のしか分からないって言ってませんでしたっけ。何でそんなこと知ってるんです?」
「だから!うるさいって言ってるでしょ、分かってるくせにそういう言い方しないでよ!」

 本当に意地が悪いわね!と叫ぶように言えば、趣味なんです、と涼しい顔で返される。
 それにまた噛みついてやろうと撫子が口を開くと、肝心の言葉を発する前にそれを防がれてしまった。逆に、本当に噛みつかれてしまったのである。

「ん!む、ぅ……!」
「…………、は、どうです?ぼくの歯。それなりに綺麗でしょう」
「っ、だから!それが何だって……」
「矯正です」

 被せるようにして告げられた簡潔な答えに、は?と撫子は怪訝そうに眉を顰める。何のつもりだと問い質すことも忘れて撫子がその薄く開かれた紫水晶の瞳を見返すと、円は出来の悪い子供に言い含めるように「ですから、」と言葉を重ねた。

「矯正してあるんですよ、ぼくの歯。まあ程度としてはそう酷かったわけじゃありませんけど、治せるんなら治しとこうってことで、小さい頃に」
「え?あ、じゃあ……」
「つまり、さっきのあなたの問いに正確に答えるなら、『矯正前の自分の歯と比較して』ということになりますね」

 何です、もしかしてあなた、他の誰かと比較されたとでも思ったんですか?
 揶揄を多分に含んだ声音で囁いて、円は心底愉快だといった顔でうっそりと笑う。対する撫子は不愉快そうにその顔を睨みつけながら、悔しげに唇を噛んだ。別に、そういうわけじゃないわ、となるべく平静を装いながら返したその呟きが、己の意に反して拗ねるような響きになってしまったのがまた悔しい。

「初めに言ったじゃない。少し気になったから聞いただけよ」
「へえ、そうでしたか。ぼくはてっきり、嫉妬かと」

 撫子の寄越す鋭い視線を身に受けながら、円はなおも楽しそうに微笑み続ける。それどころか「いいですね、その悔しそうな顔。やっぱりぼくはあなたのそういう顔が好きみたいです」なんて言葉と共に指先で輪郭を撫でられて、撫子はついに右手を振りかざした。
 しかしながら胸へと振り下ろしたそれは円の手によりなんなく受けとめられ、そのまま温かな檻の中へと捕らえられてしまう。安心していいですよ、という囁きに顔を上げれば、そこには見慣れた紫の虹彩がいつも通りの輝きを湛えていた。

「そんな馬鹿な心配しなくても、ぼくはあなた以外知りません。というか、あなたしかいりませんから」





(実地でぼくの歯並びなんか知ってるのも、あなただけですしね)