ハッピーエンドのその向こう



 カプセルに横たわり再び悠久の眠りについた撫子に別れを告げ、無人の廊下をひた走る。為すべきことを終えた今、こんなところに留まる理由など円には1つとしてありはしなかった。
 沈黙した撫子に、別れを惜しむ気持ちはない。静かに横たわるあの撫子は、確かに九楼撫子ではあるが円の求める人ではなかった。円にとっての撫子は、この世にただ1人。この時空の英円が愛を捧ぐ存在は、あくまであの時空の、あの撫子だけだった。

(キングのそれとは違う、とでも思いたいんですかね)

 やれやれと自嘲気味に口角を吊り上げながら、円は走る速度を変えぬままに突き当たりの角を曲がる。そしてその先に佇む人影に気付き、咄嗟にその場でたたらを踏んだ。

 この様々な機器類で塗り固められた地下施設は言ってしまえば撫子のためだけに造られたようなもので、基本的にはその存在さえも機密事項に近いものがある。元よりCZ内部では極端に人気のない場所だと言えた。その上、既に主の居なくなったクイーンの御座所にわざわざ足を運ぶ人間などほとんど居ない。大胆すぎるのではと撫子を心配させた今回の計画は、それが分かっていたからこそ立案されたものだった。しかし。

「はあ……キングといいあなたといい、どこまでも面倒な人達ですね。察するの早いんですよ」
「やや、久しぶりに顔を合わせたっていうのにつれないですねービショップ君」

 あれ、そんな久しぶりでもありませんでしたっけ?
 いつも通りのとぼけた声ととぼけた笑顔で、レインは右手のマペットに向かって話し掛けるように言葉を紡ぐ。ぱくぱくと喋るように動かせば、「ばーか、あいつら出てったのなんざつい最近じゃねーか。その歳でもうボケちまったのかよ」とやはりいつも通りのガラの悪い声がそれに応えた。

「レインさんがすっとぼけてるのなんていつものことでしょ。で、何の用です?ぼくちょっと急いでるんですけど」
「いやですねー。不法に侵入しておきながら、見つかれば逆に『何の用だ』、だなんて」
「かぁー!おい聞いたかお前、不法だとよ!てめーらで勝手に政府だなんだ名乗って適当な法つくっといて、よっく言うぜー」

 図太ぇよなあ、と悪態をつく相方に「カエルくんはほんとに口が悪いですねー」なんて暢気に返しているレインは、『侵入者を発見した』と言う割に円を捕まえようともせず、アワーを呼ぼうとする様子もない。もっともレインがその目的で動いたとしても、円を捕らえられる可能性は低いだろう。キングにしろレインにしろ、彼らのような研究が本職の人間に大人しく捕まってやるほど円は弱くもなければ甘くもなかった。

 しかしすぐに解放してくれることもないようだと判断し、円は疲れたように溜め息を吐く。それなりに長い付き合いになるが、この人の考えは本当に読めない。それこそ、あのキングよりも、だ。

「いえね、単に少しお話しようかと思っただけなんですよねー。最後に、君と」

 ちょっと慰めてあげようかと思いましてねー。ほら、ビショップ君って一応ボクの後輩じゃないですか。不出来とはいえ。
 もう随分と前に聞き慣れてしまった間延びしたような独特の口調でそう告げられ、円は素直に顔を顰めた。何が言いたいんです、と不機嫌な色を隠さず問えば、二対のルベライトがすっと細められる。

「元の世界に帰ってしまったんでしょう?撫子くん」

 可哀想に、振られちゃったんですねー、なんて軽い調子で言いながら右手のカエルをぱくぱくと戯れに操るレインに、円はまた一つ深い溜め息を吐き出した。そんな皮肉以外の何ものでもない言葉を吐きながら、慰めるなどとよく言えたものだ。

「でも、やっぱり彼女も泣いたんですかね?帰るってことは、愛しい君とはお別れってことですしー」
「……だから、何が言いたいんですか先輩」
「君は泣かないんですか?」

 低いトーンで繰り返される円のそれに答えることなくレインは更に問いかける。泣いたらちょっとは楽になるんじゃないですか、と畳み掛けるように紡がれた言葉に、円は忌々しげな舌打ちを零した。

「泣きませんよ。泣いてなんかやりません。あなたには関係のないことでしょう」

 言いながら、円は胸じくりと疼くのを感じた。痛い。これ以上ないほどに、左の胸が痛む。ただの一臓器でしかないはずの心臓が、どうしてか彼女を思うと痛んで仕方がなかった。
 この痛みが、泣けば癒える?そんなことあるわけがない。その程度で癒せるはずがない。
 たとえそれが本当だったとしても、泣けばこの傷が癒えるとしても、円は決して涙を流したりはしないだろう。泣いてなどやらない。一片の欠片たりとも、この想いを取り零すつもりはないのだ。
 楽になど、なって堪るものか。この胸を焼く、喉の引き攣るような痛みは、円にとってはそのまま撫子のいた証だった。円と撫子が共に過ごしたその時間の、結晶のようなものだった。
 それは決して甘いだけではなく、それどころか苦味ばかりが強く残るものだったかもしれない。それでも円はそれを捨てようとは思わなかった。むしろ、その痛みを後生大事に抱いていくつもりでいた。央と、両親と、この胸の痛み。それだけを抱いて、生涯この壊れた世界で生きていこうと。

 だって、彼女は忘れるのだ。どんなにそれを嘆き悲しんでも、抗おうと足掻いても、最後には忘れてしまう。この世界で過ごした時間も、この世界自体も、そしてこの世界に生きる【円】のことさえも。
 だったら自分1人くらい、覚えていてもいいはずだ。彼女と自分が、確かに想い合っていたということを。その事実を。
 この愛惜を胸に生涯彼女を想い続けることを、彼女の幸福を願い続けることを、誰にも否定させはしない。それが円の矜持だった。

(あとはあの人の事故を回避して、向こうのぼくとでも幸せになってくれればそれでハッピーエンドってやつでしょ)

 あの人に会えたこと自体、奇跡のようなものだった。本当であればこの世界に生きる自分と彼女は、覚めない眠りに囚われ続ける哀れな被害者と、間接的とはいえそんな状態へと追いやった加害者という関係でしかなかったのだ。当然、言葉を交わす機会など訪れようはずもない。
 それなのに円と撫子は出逢い、そして互いに惹かれ合って、それぞれの想いを確認することまでできた。実際のところ奇跡なんて綺麗なものとは程遠い、鷹斗の狂気に近い執着によって叶えられた研究の成果ではあったが、実現する確立から考えればやはり奇跡のようなものだと言えるだろう。

 そんな嘘みたいな確率で、この胸の痛みは今ここに存在しているのだ。
 円には、もうそれだけで十分だった。

「あの人がね、泣いてくれましたし。それでいいでしょ別に」

 吐き捨てるようにそう言えば、レインは「おやー、聞きましたかカエルくん!」とわざとらしいまでの驚きの表情で右手のそれに語りかける。ぱくぱくと動かされたカエルも「涼しい顔して言いやがるぜ!くっせーなー!」と相変わらずな受け答えをして、円をうんざりとした気分にさせた。他人の神経を逆なですることにかけては、本当に天才的な人達だ。思わず物思いに耽って口を滑らせた己を呪う。

「いやはや、愛ですねー。ボクとしては君にはもう少し幸せな道を歩んでもらいたかったんですが、それじゃー仕方ありません」
「……ほんと、馬鹿にしてんですか。もういいですよね、いい加減通してもらいますよ」

 どうせ阻む気もないのだろうと再び足を踏み出せば、予想通りレインからのアクションは何もない。それどころか、彼は通路の端へ寄って道を譲るような真似さえしてみせた。
 本当に読めない人だ、と何度思ったか知れない言葉を繰り返しつつ、円はその横を走り抜ける。すると、すれ違い様にレインが「君は本当に、傲慢になりきれない子ですね」と小さく呟くのが聞こえた。
 常ならば飄々と響くはずのその声が、今はどことなく残念そうな、困ったような気配を帯びている。そのことに気をとられながらも円は振り返ることはしないまま、出口へと向かって一直線に通路を駆け抜けた。





(別にいーんですよ、ぼくは。この痛みを、あの人に教えてもらえただけで)