酔って狂乱、醒めて後悔



「あ……ごめんなさい、円。その日はもう予定が入っちゃってて……」

 そう言ってまた「ごめんね」と申し訳なさそうに謝る撫子に、円は分かりやすく眉を顰めた。そうですか、と返す声だけを聞けばなんとも思っていないように思えただろうが、表情とその平静な声とが見事なまでに噛み合っていない。

「でもこの前、その日は空いてるって言ってませんでしたっけ」
「ええ、確かに言ったけど……その時に円、多分その日は無理かもって言ったでしょ?だから、予定入れちゃったのよ」
「……だから多分って言ったじゃないですか。確定するまで待っててくれてもいいでしょ」
「ごめんってば。でも『多分無理だ』って言われたら、駄目なんだなと思うじゃない」
「ああそーですか、そーですねぼくが悪いんですよね。分かりました」

 別に構いませんけど、と不満げに呟いて、拗ねたように撫子に向けていた視線をふいと逸らす。言葉では納得したようなことを言いながらも心底つまらなさそうな顔をする円に、撫子も「一応謝ってるんだし、そんな顔しなくてもいいじゃない」と少しだけ眉を顰めてしまった。
 しかし円のそのあからさまな態度を見ているうちに、撫子は何だか徐々に微笑ましいような気分になってきた。円は普段飄々としていて年齢よりも大人びた態度を取っているが、時折こうしてやけに幼く思えるような行動をしてみせたりする。ふふ、と撫子がつい小さく笑うと、円はそれをきっちり見咎めて「ちょっと、撫子さん」と少しだけ語調を強めた。

「何笑ってんですか、あなた」

 眉間の皺を深くしながら睨んでくる円は、平静を保っていた声色まで次第に拗ねているようなそれになってきてしまっている。抗議されているというのに、子供の頃の円を思い出して撫子はまた笑ってしまいそうになった。いつもはなんて可愛くないのかしらと思ってばかりの恋人が、こんな時ばかりはやたらと可愛らしく映る。素直じゃないくせに、変なところで素直なのだ。この英円という人は。
 ごめんなさいと言いながらも微笑むのをやめない撫子に、円は軽く溜め息を吐く。「いーですけどね別に」と呟く声は、呆れのような諦めのような、そんな色を帯びていた。

「で、一体何なんです?」
「ん?」
「その日の予定ですよ。何で自分が振られたのかくらい聞いてもいいでしょ」
「ああ……えっと、ちょっとした大学の付き合いよ」

 手元の紅茶に何気なく視線を落としながら、撫子は「ゼミの子達との食事会というか……」と濁すようにして言葉を切った。あまり曖昧な言い方を好まない撫子のそんな様子に円はまた眉を寄せ、「撫子さん?」と窺うように名前を呼ぶ。
 そして撫子が「なに?」と顔を上げる前に、円はふと何かに気付いたように薄っすらと目を開いた。

「…………ねえ、撫子さん。その食事会とやら、もしかしなくともアルコール出ますよね?」

 眉間の皺を綺麗に消し去り、口角を緩やかに引き上げて円はにこりと笑う。とんでもなく美しく微笑む円に撫子がびくりと肩を震わせると、その笑みは更に深いものへと変化した。

「出るんですね?」
「……出る、と、思うけど」

 多分、と付け足すように呟くと同時に、円の手によってガシリと撫子の頭部が固定される。ぎょっとする間もなく美しい笑みを貼り付けた円の顔が眼前に寄せられたかと思うと、それは「へーえ、そうですか」という言葉と共にたちどころに皮肉めいたものへと変わった。
 再び薄く開かれた紫水晶の瞳に見据えられ、撫子はうっと言葉を詰まらせる。まずい、どう考えてもまずいとしか言い様がない。なんというか、既にこの時点で円の思う通りにしかならなそうな展開である。

「撫子さんって頭良いのかと思ってたんですけど意外と頭弱かったんですねぼくはとっても親切なんであなたにも分かるように教えて差し上げましょうかアルコールを含む飲料が振舞われる食事の席っていうのは一般的に飲み会と呼ばれるんですよ撫子さん分かりました?」
「ちょ、わ、分かった!分かったからちょっと離れてよ!」

 いくらなんでも近すぎるわ!とあとほんの少しで鼻の先が触れてしまいそうな距離に、捲くし立てるように喋る円の両肩を精一杯の力で押し返す。が、当然撫子程度の力で円を突き放すことなどできるはずもなく、「どうでもいーですよ、そんなこと」と素気無くあしらわれてしまった。
 それどころか今度は頭だけでなく全身を拘束するように抱き締められて、「近いっていうのはこういうのを言うんですよ」と軽く啄ばむようにキスを落とされる。口を噤むしかなくなった撫子に円はふっと満足そうに笑うと、撫子の望む通り少しだけ身を引き距離を取った。

「で、あなた何で急に飲み会なんて行こうとしたんですか。追求しなければそのまま誤魔化そうとしてたところを見ると、ぼくに対する後ろめたさはあったわけですよね?」

 浮かべていた笑みをさっと消し去り、再び不満そうに眉を顰めてそう詰問する円に撫子も少しだけ眉根を寄せて「だって、」と呟く。
 撫子も、ずっと断ってはいたのだ。淡白そうに見えてその実独占欲の強い円の性質を身に沁みて理解している撫子には、円がそういった催しに撫子が参加することを快く思わないなんてことは分かりきっていた。
 しかし撫子にも撫子の交友関係があれば、それなりの付き合いというものもある。円のこともあるが、実際に忙しいことも手伝って毎回のように用事があるからと断っていた撫子だが、友人達に揃って「じゃあいつなら大丈夫なのか」と言われてしまえば断るのも難しかった。

「うちのゼミ、教授が皆で飲んだりするの好きなのもあって結構飲み会多いのよ。今回はいつも参加しない私をどうにか連れ出してみよう、って話になったみたいで……」

 自分を主賓のように扱われては、無下に断ることもできない。皆がわざわざ撫子のスケジュールに合わせると言うのだから、断るための明確な理由もそうそう見つからないのだ。
 そんな理由が、円に通用するとは思っていないが。

「それでぼくが空いてるかもしれない日を挙げたわけですか。うわー、ほんと許せませんね。ていうかあなた人前で飲めるほど自分が酒に強いとでも思ってるんですか?過信するにもほどがあるでしょ」
「そのぐらいは自分でも分かってるわよ!お酒を飲む気はないわ。烏龍茶とか、ジュースで済ませる。食事してくるだけよ」

 心底馬鹿にしたような調子で皮肉げに笑う円にそうきっぱりと反論すると、更に馬鹿にした様子でハッと鼻で笑われる。嘲りを含んだそれに睨むような視線を返せば、「あなたそれ本気で言ってます?」と溜め息をつかれた。

「わざわざあなたを参加させるために開くような飲み会で、そんなの通用すると思ってんですか?絶対上手いこと丸め込まれて飲まされますよ、あなた。というか日程調整してまで撫子さんを参加させようとするなんて、あなた目当ての男がいるとしか思えないんですけど」
「そんなわけないじゃない、ただ私が断ってばかりいたからよ。お酒だって、皆良い人ばかりだしそんな風に無理強いするようなことはないと思うわ。それに私だって勧められてもちゃんと断るし……」
「撫子さんて本ッ当に馬鹿ですね。いいですか、それができるならあなた今飲み会に参加することになんかなってませんよ。いい加減自分が存外押しに弱いってこと自覚したらどうなんです?」
「それは、だって……今までずっと断り続けてたし、日にちも私に合わせてくれるって言うんだもの。無下にするのも悪いでしょう」
「そうですか、じゃあお酒も同じですよね。色々な人に代わる代わる勧められて断り続けてたら、そのうち相手に悪い気がして頷いてしまうんでしょう?それにあなたのために開いた飲み会だと言われれば、やっぱり断りきれずに結局飲んじゃいますよ、撫子さんは。一杯ぐらいなら、とか言って」
「な……何よ、私そんなに流されやすいつもりないわよ?それに、いくら私でも一杯ぐらいなら平気なんだから!」
「…………」
「…………?」

 このままでは延々と続きそうに思われた押し問答は、売り言葉に買い言葉といった体で発した撫子の一言により唐突に終息を向かえた。
 急に口を噤んだ円に首を傾げながら、撫子は表情を窺うようにそっと円を見上げる。すると円は疲れたように顔を顰め、深く重たい溜め息をついた。
 そうして一言、「もういいです」と短く呟く。

「え……?もういいって……」

 よく意味が分からずきょとんとしたまま鸚鵡返しに呟くと、円はつまらなさそうな顔で「このまま話していても平行線を辿るだけでしょうから」と言いながら、撫子を捕らえていた腕をするりと解いた。
 おもむろに立ち上がりそのまま背を向けた円に不安を覚えた撫子が、「ちょっと、円?」と離れていくその背に声を掛ける。円はその呼びかけに緩慢な動作で振り返ると、「飲みましょう」とだけ口にした。

「…………は?……何言ってるの、円」
「だから、飲みましょう。今からぼくと。全部検証してみましょうよ。あなたがグラス一杯のアルコールを口にして、本当にそれだけで済ませられるか。その後あなたがどんな状態になって、どういう状況に陥るのか。そういうこと全部」

 撫子さん、確か明日は午後からでしたよね、とほとんど断定する形の問いに恐る恐る頷けば、ならば問題ないというように円は口角を上げる。それから円が何度かリビングとキッチンを往復するのを大人しく見ていると、テーブルはたちまちのうちにアルコールやグラスで埋め尽くされていった。
 途中でハッと我に返った撫子は「ちょっと待ってよ!」「ねえ円、私飲みたくなんてないんだけど!」と何度か抗議の声を上げたが、その努力も空しく目の前には次々とウォッカやジンなどの瓶が並んでいく。そして仕上げのようにアイスペールがゴトリと置かれ、円によるカクテルバーの準備が完了した。
 円は再び撫子の隣へと腰を下ろすと、先程とは打って変わって楽しげに笑う。

「撫子さんって飲むと都合よく記憶飛ばしますし、多分それで自覚が薄いんですよね。この際ですから、ぼくが教えてあげますよ。あなたの酒癖がどんなに厄介なものなのか」

 もし撫子さんが正気を保っていられたら、飲み会に行っても構いませんよ。
 簡単でしょう?と挑発するような言葉と共に、円はグラスへコーヒーリキュールを注ぐ。それからウォッカを注ぎ入れて軽く掻き混ぜると、それを撫子の前にコトリと置いて「それじゃあ楽しみましょうか」とその口元を妖しく歪ませた。嫌だなんて言葉は、届きそうにない。
 数分前に『円の思う通りになりそうだ』なんて考えていた自分を思い出し、正にその通りじゃないの、と撫子は頭を抱えそうになった。

「撫子さんが完全に酔ったら、ぼくの好きなようにさせてもらいますんで」

 有無を言わせぬ円の微笑みと甘やかなブラックルシアンを前に、撫子の戦いが始まった。





(どうせ撫子さんは覚えてられないでしょうから、動画でも撮っといてあげますね)