運命の掌で



 ぜぇ、はぁ、と乱れた自分の吐き出す息が、辺りの暗がりに響く。荒すぎる呼吸は、うるさいほどの虫の声にもかき消されてはくれなかった。

 いたか。   よく探せ。   近くにいるはずだ。

 息を潜め耳をすませば、ぼそぼそとした小さな会話が聞こえてくる気がした。

 逃げなくては。

 泣きたい気持ちでいっぱいだったが、そんなことをしている暇も余裕もない。走り疲れて鉛のように重く、ともすればすぐに縺れてしまいそうになる足を引き摺るようにして前へと進む。買ってもらったばかりのスニーカーは、赤土に塗れて見る影もなくなっていた。

 逃げなくては。

 行く手を阻む木々を潜り抜け、山道を駆ける。暗い山道で木の根に足をとられては、真弘は何度も転び傷を負った。
 その傷の痛みに生きているということを実感しながら、同時に真弘は絶望する。いくらも血を流すことなく癒えてしまう、己を縛る異形の証。しかし、そんな絶望に膝を折るわけにはいかなかった。今はただ、前に進まなければならない。

 逃げなくては。逃げなくては。逃げなくては。

 呪文のようにそれだけを唱えながら、真弘はただひたすら足を動かす。枝葉を掻き分けひた走るうち、不意に鬱蒼と茂っていた木々が途絶えて少し開けた場所に出ていた。
 そこは暗く、光の差し込まない夜の森とは対照的に、月の光で満ちていた。頭の片隅では隠れなければと冷静に考えつつも、真弘は思わず足を止め、天を仰ぐ。真っ暗な星のない空は、一箇所だけ丸く色が抜け落ちていた。
 ああ、そうだった。今夜は所謂、十五夜ってやつだ。全てを遮断するように茂る木々のお蔭で、今夜が満月だと気付くことさえできなかった。

「……綺麗だな」

 そのまま暫く月を眺めているとなんだか不思議な気分になってくる。
 自分は今、どうして追われているのだろう。何故こんな小さな村に、囚われなければならないのだろうか。
 答えの出ない自問を繰り返しながら月を眺める。

「きっと、いいトコなんだろうな……」

 だってあんなにも綺麗なのだ。天国のようなところでなければ嘘だろう?

「行って、みたい、な」

 いつか。
 いつかあの場所へ行って、今とは逆にそこから地球を眺めることができたなら。一体どんな広い世界が見られるだろうか。きっと、とても大きな世界が見られるはずだ。この村とは比べ物にならないような、大きな世界が。
 ふいに行こうと決める。行きたいなら、行けばいいのだ。そうだ、大きくなったら、大人になったら必ず行こう。
 ただの思いつきだったそれは、自分でも驚くほど心に染み渡った。そのためにはまずここを出なくてはならない。この村を。この檻を。
 再び走り出そうと一歩踏み出したその瞬間、背後でガサリと茂みが揺れて足元が人工的な光で照らし出される。


『駄目よ、真弘。逃げたりしては』


 運命に、囁かれた気がした。





(聞き分けてちょうだい、真弘。貴方の抱くその夢は、滅びへと繋がるの)