私はそれなりの家に生まれた、それなりの少女でした。
私の母は結構な名家の出で、自身もそう教育されたせいかとても教育熱心な方でした。一人娘である私にとても期待をしていたようで、その期待は私が幼い頃から厳しい躾となって表れました。
学力試験は勿論、立ち居振る舞い、ピアノや英会話などの習い事においても、他者より優れた成績・評価を残すこと。
それが、私の人生の指針でした。
優秀な父の遺伝子のお陰か、母の期待に応えられるだけの能力が私にあったのはとても幸いなことだったと思います。私はできるかぎり、母の望む淑女然とした娘たるよう努めました。
幼稚園入園から受験を経験し、その後もそれなりに名の知れた名門へ。
教養を身につけることに追われて幼い頃は歳の近い友人などいなかった私ですが、学校に通う過程で友人もできました。けれど、プライベートな時間を共に過ごすほどの友人はいませんでした。私も、友人達も、そのほとんどが“休日には習い事を”という人間だったためです。
そのことに不満を漏らす友人もいましたが、私は特にそうした思いを抱くことはありませんでした。
両親は健在で、家柄も悪くはなく、経済状態も並より上。イジメなどを受けたこともなく、友人もいる。
恵まれた環境で育ったのだと思います。不自由など何もない生活を送ってきたのだと思います。その代わり、自由も満足も、特に感じたことがありませんでした。何かに感動することもなく、感情の起伏自体が少なかったのではないでしょうか。
今となっては当時のことはよく分からなくなってしまいましたが、自分がつまらない人間だったのだということだけは、今でもよく分かります。そして当時の私は、そんな自分に特に思うところはなく、ただの事実として受け入れていました。変わりたいと考えることもなく、変わる必要性も感じてはいませんでした。
こうして私は大人になって、母が望むような進路に進むか、そうでなければ婚姻を結ぶかするのだろう。そう思っていた矢先のことでした。
大学受験を控えた高三の秋、母が他界したのです。
突然のことでした。とても突然だったという印象が、強く残っています。
母の命を奪った病の名前は、“風邪”でした。ただの、風邪でした。母は生まれつきあまり丈夫ではない方でしたが、こんなに呆気なく逝ってしまうとは思っていなかったので、少し驚きました。
そしてそれ以上に、母の死に対してショックは受けても、悲しみはさして感じない自分に驚きました。授業中に教室の外へと呼ばれ聞かされた母の死は、まるで遠縁か、もしくはあまり交流のない同級生の訃報でも聞くかのようだったのです。
そんな、あの人が。信じられない。可哀想に。悲しいけれど、御冥福をお祈りしましょう。
そういう心境でした。母が嫌いだったわけではありません。勿論憎んでいたわけでもありません。厳しく躾られはしましたが、それは彼女なりの愛情からであったはずです。自分の体面という部分も多分にあったとは思いますが、多少は愛情もなくてはああも熱心になるのは難しいと思います。
では、私は彼女を愛していたのか。そう自問してみたところ、答えは出ませんでした。そのことにも、私は驚きを覚えました。
私は母を、愛してはいなかったのだろうか。通夜や葬儀のあいだ、ぼんやりとそのことばかり考えている私は突然の母の死に呆然としているように見えたのでしょう。周囲では『可哀想に』『そっとしておいてあげましょう』という言葉が始終囁かれていました。
そして無事葬儀を終え、ようやく周囲も落ち着いてきたかという頃には、私は母の死に受けたショックからほぼ脱していました。
母がいなくとも、家事は雇っている家政婦の方がこなしてくれます。母と死別したからといって、勉強など私がやらねばならないことに変化はありません。私の中で母の死によって変わったことといえば、母の存在の有無以外にありませんでした。
こんなことを言えばなんて酷い娘だと思われるでしょうが、その時の私にとって既に母の死は、母が骨の周りを血肉で覆った状態で家の中にいるか、それとも骨だけの状態で墓石の下にいるか、という違いでしかなくなっていたのです。
しかし、父は違いました。彼はとても愛妻家だったのです。
妻だけが彼のテリトリーに入ることを許され、彼を支えることができる唯一の存在でした。私の世界は母がいなくとも問題なく回り続けますが、彼の世界は妻がいなくては回りません。
以前は精力的に働き、むしろ家庭よりも仕事を優先するようなきらいのある方でしたが、母がいなくなってからというもの仕事のことなど思いつきもしないようでした。それもそうでしょう、仕方がありません。彼は、妻と幸せに暮らすために働いていたのですから。
それから父は日がな一日、ラウンジにあるビロードのソファに座りどんよりと曇った眼を宙に向けてばかりいるようになりました。父が働かないということは、支出はあっても収入はないということです。
しかし通帳に記された残高は十数年は問題なく暮らせるだろうというものだったので、私は予定通り大学を受験することにしました。大学を卒業し就職するまで四年。それまで収入がなくとも食うには困らず、学費も払えるのなら、高校を卒業して直ぐに働くよりもそちらの方が良いだろうと思ったのです。
けれどこの時勢では何があるか分からないので、と念のため家政婦は解雇し、切り詰められる支出はなるべく切り詰めました。本当はまず最初に無駄に維持費の掛かる大きな家を手放してしまいたかったのですが、父が母の思い出の残る家から離れる気はないようなので、それは諦めるより他ありませんでした。
今になって考えてみればこの考えもまた、母を亡くした娘の思考、妻を亡くし消沈する父を持つ娘の思考としては酷いと言われても仕方ないものだということが分かります。しかし、当時の私はそれを至極真っ当な考えだと思っていたのです。
ともかく、私はそんな父と二人だけの生活をしばらく続けていましたが、抜け殻のように日々を過ごす状態から父が回復することはついぞありませんでした。食事も碌に口にしようとせず、点滴を打ちに病院へ行くことも拒否する父は遠からず倒れてしまうだろうと危惧していましたが、そうなる前に彼は自らの人生に幕を下ろしたのです。私が学校に行っている間にふらふらと街を徘徊し、交差点に飛び出したとのことでした。
娘一人を残し妻の後を追った父に対して、私は『お父さんは最後まで私のことは愛してくれなかったのね』などと悲劇ぶって嘆く代わりに申し訳なさで縮こまりたいような気持ちになりました。
彼は最愛の人を失い、生きていることに意味も見出せないほどの喪失感を味わっていたというのに、私は何一つ変わることなくけろりとしていたのです。日々自分も死のうかと考えていたのかもしれない父と同じ屋根の下で、将来のことを考え数式や古語を覚えていたのです。私は薄情な娘です。
その後、父が死んでから一月も経たずに迎えたセンター試験も、予定通り受験しました。学校で一斉に行った自己採点の結果は、非常に良いものでした。私は、薄情な娘です。
そして無事に第一志望の大学へと入学することが決まり、新調したスーツで入学式に向かうその最中。混み合う駅のホームで人波に押され、私は階段から転がり落ちてその生涯を終えました。
薄情な娘への報いでしょうか。母同様、実に呆気ない終わり方でした。
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2009-09-15
タイトルの慣用句は、正しくは『生は死の始め』。渡鬼的な感じのネーミングです。
ヒロインの元の性格が結構特殊なので受け入れてもらえるかちょっと心配だったり。