死は生の始め 2



 私が次に世界を知覚した瞬間を始まりとするなら、それは畳の上でのことです。
 ふと目を開くと何の変哲もない木造の天井が視界いっぱいに広がっていました。そのとき私はまだ自分の身に起こった事を正しく把握することができていなかったので、ただただ不思議に思いました。あのまま死なずにすんだとしても、次に私が目覚めるとすれば病院のベッドの上が妥当というものです。しかし、いくら瞬きを繰り返そうと天井が病室の真っ白なそれに変わることはありませんでした。

 簡潔に言ってしまえば、その時既に私は新たな人生を歩みだしていたのです。
 生まれ変わりだとか、そういったフィクションでしか有り得ないような話が実際に起こり得るなど、私は今まで一度も考えたことがありませんでした。別にそういったもしもの話をすることを馬鹿にしていたわけでも、無駄だと思っていたわけでもありません。ただ、そういうことに思いを馳せること自体、私には考えつきもしないことだったのです。
 そんな想定どころか想像すらしたことのない事態に、私はとても混乱しました。どうしたらいいのか、どうするべきなのか、少しも分かりませんでした。しかし何か思いついたところで、それを実行するのは難しかったでしょう。私は自分の身体を思い通りに動かすことも難しいほどに幼かったのです。周囲の会話から分かったことですが、その時の私はたった1歳でした。

 しかし、どうしたらいいのかなど分からなくとも呼吸はできます。自分の身に起こったことを無理に理解しようとしなくとも、ただ生活する上では何の問題もありません。私は早々に考えることを放棄しました。前例などあるはずもない事態について考えるよりも、もっと他に考えるべきことや覚えるべきことがあると思ったのです。家族のことや周囲の環境、自分が今どの程度のことを自力でできるのか。そしてどの程度のことなら1歳児が行ってもおかしくないのか、ということも知っておく必要がありました。
 もし私が今までの自分の人生をとても幸福に感じていて、両親や周囲の人間を深く愛していたなら、記憶にある両親以外の人間を家族と呼び生きていくことに複雑な気分になったことでしょう。けれど私は何の未練もなく、以前の記憶を切り捨てることができました。あの私の人生は階段から落ちた瞬間に終わったのであれば、今の私には関係がないと思ったのです。

 そして自分の名前や家業、家族構成などを少しずつ確認しながら日々を過ごすうちに、私にある転機が訪れました。私に弟が生まれたのです。
 あれは12月に入ったばかりの、とても寒い冬の日のことでした。父の腕に抱かれながら、私はガラス越しに初めて彼と出会いました。透明なケースの中に寝かされている弟は何だか皺だらけで、あまり可愛くないな、と感じたのを覚えています。しかし数日後に母と共に退院してきた彼は幾分ふっくらとしていて、そのときは素直に可愛いと思えました。

 正直なところ、初めの頃私は弟に、若にあまり興味がありませんでした。乳児なので当然のことですが、若の周りには常に誰かしら大人がついているので私が彼を気に掛ける必要は特になかったのです。私が普通の1歳児であったなら家族の関心を一気に攫われ面白くない、と形はどうあれ弟に関心を向けたかもしれません。けれど私は生憎と18歳まで生きた記憶を持っているので、そういった感情すら持つことはありませんでした。
 あうあうと喃語を発しながら手足をばたつかせる様を見れば微笑ましいとは思いましたが、意思疎通のできない赤ん坊を相手にするよりも、父や祖父の部屋に整然と並べられた書籍に向かっていた方が私は退屈せずにすんだのです。

 そうして私と若は特に接触もなく姉弟とは名ばかりの日々を過ごしていましたが、若が自力で移動できるようになった頃から、その関係は崩れ始めました。家族に隠れて幼児が到底読めないような本を読み漁る姉をわざわざ見つけ出しては、その傍らで眠りにつくのです。私はその行動を不可解に思いましたが、私の邪魔をしないのなら、と黙認していました。
 しかし子供が2人揃って姿を見せないとなると、家族は当然子供達を探しに来ます。そのため度々読書を中止しなければなりませんでした。結果的に邪魔をされているような形になりましたが、悪気があるわけではない若を邪魔だと素気無くあしらうのも少し躊躇われます。多少の良心の呵責から、私は若を遠ざけることはしませんでした。

 春が過ぎ、夏が過ぎ、幼い私と若は日を追うごとに成長していきます。色々な動作はできるようにはなっても日々をただ漫然と過ごすだけの私とは違い、若は幼いながらに少しずつ主体性を確立していくのが分かりました。
 そのうち私の傍にいるのにも飽きて、活発に行動するようになるだろう。私はそう高を括っていましたが、その予想に反し若は私の傍を離れようとはしませんでした。それどころか、弟に無関心な素っ気無い姉の後をますます追ってくるようになったのです。
 私の服の裾をギュッと掴んでよたよたと歩く若の姿はやはり微笑ましいものではありましたが、徐々に私は若を煩わしく思うようになりました。私はもうある程度自由に動き回れるようになっていたので、服を掴まれてゆっくりと歩かれると私は足止めされる形になってしまうのです。初めは私も若に合わせてゆっくりと行動していましたが、毎日どこかに移動しようとするたびにそれが続くと、億劫で仕方ありませんでした。


- continue -

2009-09-15

一応日吉中心な感じになる夢のはずなのに初っ端からこんな扱いですみません。
でもこの段階だとまだ夢でも何でもないですね。赤ん坊の名前が若なだけ。もう少しだけお付き合い下さい。