君が一番、貴女が一番。


 読み終わったページを指先で捉え、さっと右側へと送る。その動作に伴い微かにパラリと乾いた音がしたと同時に、今まで台所から聞こえていたカチャカチャという色々なものがぶつかり合う音が止んだ。
 それから暫くして台所から姉さんが出てきたことを覚り、手元の本をそっと閉じる。するとすぐ横に菓子とお茶の乗ったお盆が静かに置かれた。

「はい、若。ハッピーバレンタイン」

 その一言と共に隣へと膝をついた姉さんが俺の前にカタリと小振りな皿を差し出す。バレンタインらしくはないけどね、という毎年お決まりの台詞に「構いませんよ、そんなの」と返せば、姉さんは嬉しそうに微笑んだ。
 青きな粉に彩られた、楕円形のような小さな和菓子。鶯の形を模しているという薄緑のそれが2つほど乗せられたその皿の横に、続けて緑茶の入った湯飲みが置かれる。

「今回はね、うぐいす餅にしてみたの。若、求肥使ったの結構好きでしょう?」
「ええ、好きです。ありがとうございます」
「本当に今できたところだから、まだ温かいかも」

 後で冷やしたのも食べられるからね、という姉さんの言葉に軽く頷きながら、添えられた黒文字の菓子楊枝を手に取りさくりと餅を切り分ける。相手は弟だというのに、きちんと楊枝を湿らせるところまでやるというのが如何にも姉さんらしい、と思わず忍び笑いを零すと姉さんは不思議そうに小首を傾げた。

「いえ、何でもないです。頂きます」

 笑いを治めてそう言えば、「あ、うん。召し上がれ」という言葉と共に姉さんが隣で少し居住まいを正すのが分かった。じっと向けられる視線を感じながら、楊枝に刺した菓子をそっと口に運ぶ。ほんのり温かい餅が柔らかく形を崩し、餡の控えめな甘さが口内に広がっていく。

「うん、美味しいですよ」

 姉さんの作る菓子はどれも美味い。このうぐいす餅も、餡の甘さはもちろん餅の柔らかさや舌触り、どれをとっても俺の好みに合致していた。
 ゆっくりと嚥下しきってから姉さんに向き直ってそう感想を伝えると、姉さんは「良かったぁ」と途端にふんわりと相好を崩した。

 姉さんは昔から、2月14日にはチョコレートではなく和菓子を作る。それは姉さんが台所に入ることを許されるようになった年から、毎年のことだ。「若は和菓子の方が好きでしょう?」という言葉と共に齎されるその小さくて繊細な贈り物に親しみ過ぎて、バレンタインというものが製菓業界の策略により一般的には“チョコレートの日”として認識されているということを俺は小学3年くらいまでよく知らずにいた。
 やはり女というものは男よりも精神の発達が早いようで、それまでも幼いながらにチョコがどうのと言っている女子はいたし、俺自身実際にいくつか貰うこともあった。しかし俺にとっては姉さんの作る和菓子こそがバレンタインの象徴で、誰もが知るバレンタインの風習に気付くのが遅れてしまったのだ。一般的なバレンタインの認識を知った時、自分が他人とバレンタインの話をするような性格でなくて良かったと思わず安堵したのを覚えている。

 そんな風に少し過去を思い返しながら皿に残る餅を口に運んでいると、隣で姉さんが「あ、そうだ」と呟いてパチンと両手を合わせた。

「あのね、今日のお夕飯、どうする?私が作ることになるけど」

 その姉さんの一言で、そういえば今日は家に俺達2人しかいないのだということを思い出す。今日は両親が知人に舞台のチケットを貰ったとかで出掛けていった上、祖父母も揃って午後から外出の予定があると言っていた。父の不在で今日は門下生の人達も来ないことを考えると、俺と姉さんは今この広い敷地内で完璧に2人きりという訳だ。

「そうですね、特にこれと言って食べたいものがある訳ではないんですが……」
「そう?じゃあ、どうしようかな……」
「俺は何でもいいですよ。その、姉さんが作るものであれば、何だって」

 その言葉はお世辞とか、そういう類のものではなかった。ある程度の年齢になってからはもう絶対に人に、それこそ姉さん本人にさえ言うことはなくなっていたが、俺は本気で姉さんの作るものがこの世で一番だと思っていた。大袈裟かもしれないが、本当に。
 人というのは大概普段慣れ親しんでいる家庭の味というものを一番だと感じるらしいが、俺はいつも口にしている『家庭の味』と呼ぶべき母の料理さえ、姉さんの作る料理には劣ると思っていた。
 姉さんは確かに料理上手だが、その姉さんに今も料理について指南している母だって当然料理は上手い。きっと料理の腕で言えば、母の方がまだ上なのだろうと俺も思う。けれどその母の料理よりも、俺の舌には姉さんの料理が口に合うと感じるのだ。菓子にしろ料理にしろ、とにかく俺にとっては姉さんが作るものが一番だった。何故なのかは、自分でもいまいち分かっていない。

「あー、その、俺は……その、姉さんが作るものが、一番美味しいと思います。本当に、一番」

 今日は、バレンタインだ。俺がホワイトデーに返せるものなんて高が知れているというのに、毎年姉さんが俺好みの和菓子を殊更丁寧に作ってくれる日。
 そのことを意識して、躊躇いながらも精一杯の感謝のつもりでそう言葉に出せば、姉さんはきょとんとした顔で俺を見つめた。それからすぐに破顔して、嬉しそうに「籠めてるものが、一番多いからかな?」と呟く。
 その呟きの意味するところは俺には分からないままだったが、その後姉さんが始終嬉しそうに微笑んでいたから、やはり言葉に出してみて良かったんだろう。










隠し味は気持ちです。

ああ、だらだらとなんとなくで書き進めたら本当に纏まりのない文章に……。ていうかバレンタイン?って感じの話ですね。すみません。お粗末さまでした。
因みに黒文字というのは菓子楊枝を作るのによく使われる木の名前です。クスノキ科の落葉低木のことですね。良いものだと本当に良い香りがします。好き。