幼馴染との馴れ初め 1


 ミンミンと騒音に等しい鳴き声を響かせながら、蝉たちが短い生を謳歌する夏。
 じっとりと額に張り付く汗で湿った前髪の不快さも忘れ、私は目の前の建物にきらっきらと目を輝かせていた。

「おぉ……!!」

 低い視点から見上げた建物の立派さに、思わず感嘆の声が漏れる。今の私の体が幼児サイズでなかったとしても、この大きさは凄いと思っただろう。
 とにかく今私が前にしている都立図書館は、幼児な私が軽くビビるくらい立派で大きかった。

「凄く大きいでしょう。びっくりしちゃった?」
「うん、すごいね!」

 微笑みながらそう問われ、こくこくと頷くしかなかった。
 普通に凄い。私が以前住んでいた地域にあった図書館は古めの市立図書館で、こんなに綺麗でもなければ規模も小さかったってのに。羨ましい。ていうか正直そんなことより、さっきから胸が高鳴って仕方ないんですが!この規模なら私の読みたい本なんていっくらでも見つかるよ、きっと!
 大体の行動が制限されてしまうせいで常に暇を持て余してる幼児もどきとしては、本というのは一番手軽に長く暇を潰せる娯楽なのだ。前からそれなりに読書は好きだったが、幼児になってから完全に活字好きになってしまった。もう読めたらなんだっていい。文章万歳!

「おかあさん、はやくいこー!」

 いざゆかん!といわんばかりに意気揚々と自動ドアをくぐると、肌に感じていた生温い空気がひんやりとした空気にサッと変わった。シンとした図書館の中では、エアコンの音と人が動く度にする衣擦れの音だけが響いている。ああ、凄く久しぶりだこの感じ。図書館来たーって気になる。

「おかあさん、えほんー」
「はいはい、絵本は向こうにあるからね」

 くいくいと繋いだ手を引っ張りながら早く行こうと催促すると、ちゃんは本当にご本が好きねぇ、と微笑えまれた。うん、まあ本当に“ご本”が好きなんだけどね。“絵本”じゃなくて。
 名目上私が読むものは絵本ということになっているので、とりあえず絵本コーナーに行くしかない。話はそれからだ。早く早く、と母を急かしつつ奥へと進むと、『えほんコーナー』とパステルカラーで書かれた手作り感溢れるボードが吊るされているのが見えた。
 てててっと軽い足音を立てながら薄い冊子ばかり並べられた本棚に走り寄って、「おお……!」とまた感嘆する。絵本だけでも凄い量。流石都立というかなんと言うか。
 それでは早速、と一番低い棚から適当な絵本を数冊選び背後に立っているお母さんを振り返る。

ちゃんもう決まったの?」
「うん、これにするー」

 はい、としゃがんでいるため同じくらいの目線になっているお母さんに絵本を渡す。よし、これで『四歳のちゃん』が連れて来てもらった目的は一応果たしたし、今度は私自身の目的を果たしたいと思います。

「あのね、おかあさん。としょかんのなか、いろいろみてきていい?ひとりで」
「一人で?お母さんと一緒じゃ駄目なの?」

 そう、一人じゃないとちょっとやりづらい。だって今私が見たいのは絵本ではなく純文学の本なのだから! の姓だった頃は純文学なんて高校生の時にだって殆ど読まなかったジャンルだが、最近は興味津々なのだ。

 それというのも、鳳家の蔵書には純文学系の書物がゴロゴロ転がっているからだ。というか鳳夫妻が揃って高学歴でセレブなせいか、そういう高尚でレベル高めなものしか置いていない。あとはお父さんの書斎にある高一レベルの教育を受けただけじゃ到底理解が追いつかないような法律関係の本とか、幼児向けの絵本くらいなわけで。
 前は読書好きとは言っても読むのはミステリーやら恋愛もののライトノベルが中心だったので、正直最初はどうしようかと思った。純文学なんて学校の教材として扱われるようなもの読んだら眠くなりそうだし。
 でも試しに読んでみたら、これが中々面白い。(書斎の本は流石に理解が追いつかなかったが)一回読めば大体満足しちゃえるラノベとは違ってやっぱ奥が深くて、気に入ったものはホントに何回読み返しても面白いし、その度に心躍る感じがするのだ。

 そんな感じで読み漁っているうちに家にある蔵書を読み尽くしてしまいそうになったので、こうして都立図書館に行くというお母さんについてきたわけだが……まあ普通に考えてこんな幼児が芥川だのエミリ・ブロンテだのを読みたいとか言い出したらちょっとおかしい。どんな天才だ。
 年齢に見合わないことをして変に賢い子だと思われたりすると後々面倒そうなので、そういう事態はちょっと避けたい。とまあ、そんな理由から館内に入ってからお母さんと別行動をとれないかと目論んでいるわけで。借りることはできないから長編はちょっと無理だとしても、詩集とか短編集なら図書館で読み終わらせることができると思うんだよ!

「うん、たんけんなの。ひとりでするの。としょかんからはでないから、おねがい!」
「うーん、でも……」

 へいき。だいじょうぶ。しんぱいしないで。わたしもう4さいだよ。
 渋るお母さんにそんな言葉を並べ続けると、三回目くらいの大丈夫を繰り返したところで「それじゃあ、ちょっとだけよ?」とついに折れてくれた。

「ありがとーおかあさん!」
「絶対に外には出ちゃ駄目だからね?」
「うん、でない!まよったらちかくのひとにきくし」
「でも知らない人について行っちゃ駄目よ?」
「はーい」
「じゃあ終わったらご本借りるところに来てちょうだいね。お母さんその近くでご本読んで待ってるから」

 やったー!束の間の自由を手に入れたぞ!いや、別にいつも縛られている感じがするとかそんなんじゃないんだけど、やっぱそれなりに年相応に振舞わなきゃなーと思ってるとちょっと息の詰まる時もある訳でして。しかも家でこそこそ読んでた幼児が読みそうもない本を好きに読めるなんて!テンション上がるー!!
 小躍りでもして喜びたい気分を抑えつつ、パタパタと足音が煩くない程度に走って検索コーナーへと向かう。よいしょっとパソコン前の椅子によじ登り、短い腕でマウスを必死に動かして読みたい書籍をいくつか検索したところによると純文学系の本は三階にあるらしい。よしよし、今行くからな蔵書たちよ!
 椅子からポンと飛び降りて再びパタパタと足音を立てて走り出すと、近くにいたお姉さんがこちらに一瞥をくれた。何だかちょっと迷惑そうな顔をしたので(いや、当たり前なんだろうけど。ここ図書館だしね)仕方ない、と逸る心を抑えて競歩で階段を目指す。

「おおおぉ……!」

 階段をゆっくり上り、最後の一段を踏みしめたその先。そこは夢の国でした。というのは流石に大袈裟だろうが、そこには本日三度目の感嘆の声が出てしまうのは仕方ない量の書籍がズラリと並んでいた。
 ああでも、素敵書物がこうも沢山あると逆に困る!どれも捨て難くてどれから読んだらいいか迷うじゃないか……!あれもこれもと気になるものを手当たり次第に棚から引き抜いてみたら、たちまち十冊ほど積み上がってしまう有様である。こんな本の山、幼児に持てるわけないっつの!てかこの時間で読みきれるわけない!
 仕方ないのでその中でも心惹かれた一冊を厳選し、他の九冊はまた今度、と泣く泣く棚に戻していく。図書館までの道順はだいたい覚えたことだし、あとは一人歩きが許されるようになったら通いつめることにしよう。

「んじゃ、さっそくえつらんしつにでも……」

 一頻り興奮し終わり、本を入手できたことでだいぶ気分も落ち着いたので今度はきちんと歩いて目的地を目指す。が、少し歩いたところで、ここからだと第二より第三閲覧室の方が近いかもしれない、ということに思い至った。まあ近いといっても大した距離ではないけど、どうせなら近い方がいいか。
 確か向こうだったよね、とさっき見た案内板を思い出しつつ逆方向へ踵を返す。するとその途端、ぼすっと誰かにぶつかってしまった。

「わっ、すみませ……」
「いや、大丈夫」

 軽く体当たりのようになってしまったのに、相手の少年はよろける様子もなく静かに「気をつけろ」と言った。おお……小さな子に注意を受けてしまうとは。初めて生を受けてから何年経つと思ってんだよ自分しっかりしろよ……。
 若干へこみつつもとりあえず「ぶつかってすみません」ともう一度謝ると、頭を下げたことで少年の持っている赤い冊子が目に入った。数拍置いて、「……うん?」と思わず首を傾げる。

「え……、にゅーとん……?」

 少年の左手に納まっている赤い冊子。表紙には太陽系を写した写真が大きくプリントされ、上の方に大きく『Newton』と書かれている。ニュートン。私も表紙だけなら高校の図書室でよく目にしたことがある、言わずと知れた科学雑誌の定番。
 うん、まあ、有名な科学雑誌なのは分かる。完璧文系だった私は興味ゼロだったが、好きな人にとってはとても面白いらしい。それは別にいいんだが、問題は何でこんな本格的な科学雑誌を明らかに小学校低学年くらいの少年が所持しているのか、ということである。何だろう、借りてきてって頼まれたとかそういうことかな?

「……お前、一人なのか」
「え?」

 やはり何度見ても『Newton』、紛う方無き『Newton』!と少年の持つ雑誌を食い入るようにして見てると、少年がちょっと眉間に皺を寄せながらそう聞いてきた。

「おやはどうした。いっしょに来ているんだろう?」
「いっしょだけど……いまはひとり。いろいろほんみてまわってたから」
「……まいごか」
「いや、そうじゃなくて……」

 別行動してるだけだ、と伝えるが、すぐさま「まいごなんだな」と断じられた。いや、だから別に迷子じゃないって。まあ4歳児の一人歩きなんて迷子にしか見えないのかもしれないけど。
 別にむきになって訂正する気もなかったので「はあ、まあ」と気の抜けた返事をすると、ぐいと腕を掴まれた。おい、何なんだ急に。

「来い。おれもお前のおやをさがしてやるから」

 眉間の皺をそのままにそう言い放った少年に、気付けば私も眉を顰めて思わず「よけいなおせわだよ……」と呟いてしまっていた。










Afterword

幼い頃からの顔馴染みをGET!の巻です。現在ヒロインが四歳ですので、原作に追いつくまでには結構な付き合いになってますね。
別に引っ張るつもりはなかったんですが、色々書いてたら少年の正体が分かるところまで書けませんでした。
2009/03/26