二人分の家族 1


「それで、一体どうしたんだ。お前は」

 そう尋ねても答えることなく泣きじゃくる私に、国君は困ったように眉根を寄せた。




 今朝目覚めた時は、普段と何ら変わりはなかった。
 顔を洗って、朝食を食べて、ちょた君と一緒に登校して、授業を受けて。
 もう随分前から私にとっての当たり前になったそんな日常の中、帰宅する途中で以前の――鳳になる前の両親のことを思い出した。

 何が切っ掛けだったかは、よく覚えていない。
 ちょた君はいつものように部活で一緒には帰れず、一緒に帰っていた友達とも途中で別れた後で一人きりだった。特に何もすることがなく、何か取留めのないことを考えていたんだと思う。
 思い出したのは別に構わない。今までも「今頃どうしてるんだろう」と考えることは何度もあった。
 その回数も鳳として成長するにつれて減っていき、今では今日のようにふとした瞬間に思い出して「元気でやってくれてるといいなぁ」なんて、自身の体験からもしや存在するんじゃと思い始めた神に祈ってみたりする程度になっていた。
 それでも、その両親の姿を思い出せなかったことなんて一度だってなかったのに。

 最後に両親のことを思い出したのは何時だっただろう。その時は確かに思い出せたはずだった。
 なのに私は今、どうしてもお母さん達の顔を詳しく思い出すことが出来ないでいる。
 二人の髪型や背格好、よく着ていた服、雰囲気。そういった大体のことは思い出せる。でも肝心の顔が、顔だけが靄がかかったように見えてこない。どうにか思い出そうとすればするほど、その輪郭がぼんやりと曖昧になっていく。


 あろうことか私は、『私』という人格に初めて生を与えてくれた両親の面影を、夕日の朱に見失ったのだ。


 そうと分かった瞬間、あまりの驚愕に膝が震えた。
 涙は出ない。その時は両親への罪悪感よりも、思い出せないという事実に対する驚きの方が勝っていた。暫く呆然としてから、無性に不安になってとにかく家に帰ろうと通学路を駆けた。
 家の門を押し開けて玄関に飛び込み、早く部屋に行ってベッドへ潜り込んでしまおうと乱暴に靴を脱ぎ散らかして。そうして二階へと続く階段に足をかけた時、「ちゃん?」と背後から声を掛けられた。
 ゆっくりと振り返り、「どうしたの?そんなに慌てて……」と心配そうに近づいてくるお母さんを見上げる。その瞬間、私はほぼ無意識に拒絶の言葉を叫んでいた。“お母さん”の顔を視界に入れると同時に、もう一人の“お母さん”の面影が更に遠ざかっていった気がして。
 胸の内側から罪悪感と恐怖とが絡み合いながら、じわじわと這い寄ってくる。その感覚に耐え切れず、気がついた時には家を飛び出していた。

 とにかく誰か、家族以外の誰かに縋りたくて、靴も満足に履かずに必死でアスファルトを蹴って辿り着いたのは最寄りの駅。こんな時に突然頼っていける相手なんて、私には国君以外に思いつかなかった。幸いスクールバックをおろす前に飛び出してきていたので、電車賃ぐらいなら鞄の中に入っている。
 泣きながら電車に揺られる子供を心配した周囲の人たちが何度か声を掛けてくれたりもしたが、大丈夫ですからと差し出される手を全て突っぱねて、私は国君の家へと走った。




 そうして今、私は改めて国君の前で泣きじゃくっている。

「……。そうやって泣いていても、俺は……察してやることはできない」
「っ……わ、……わかって、る……!」

 分かってはいる。でも嗚咽に阻まれまだまだまともに話せそうにないのだ。ここに来るまでの道のりで頭が痛くなるほど泣いていたが、見慣れた顔を見た途端にまた涙が溢れた。ぼろぼろと零れ続ける塩辛い水が、足元を濃い色に染めていく。
 もういいって。いい加減止まれってば。
 そう願っても、溢れる雫は次から次へと頬を伝い、止まってはくれない。あまりに治まらないものだから、私でさえちょっと途方に暮れそうだ。

 思い出せない。どうしても思い出せない。
 その事実が私の体からどんどん水分を奪っていく。

 何で。思い出して。早く。

 そう心で呟く度に記憶に残る両親の残像がぼやけていくような気がした。本当に、何でだろう。何で思い出せないんだろう。あんなに愛してもらったのに。
 いっぱい不満もあったし、その不満から喧嘩をしたことも数え切れない。迷惑を掛けて怒られもした。けど、いつだって愛されていた。そう自惚れでなく言える程に、愛情を感じさせてもらっていた。ついこの間まで、その所謂無償の愛ってやつに包まれて生きていたはずなのに、思い出せないなんて。

 そこまで考えて、少しハッとした。
 ついこの間、なんだろうか。そういえば『鳳』は今年でもう十歳になった。もう十年も、私は『鳳』として生きている。
 ここでの生活は変化に富んでいて、毎日日が昇ってはすぐさま暮れていく。そのせいか、いつの間にかそんなにも時間が経っていたことに意識がいかなかった。十年という歳月は、ゆっくりと時間を掛けて私から両親の記憶を奪っていってしまったのか。
 なんて薄情なんだろう。私はたかだか十年で親の顔が曖昧になるほどの情しか持ち合わせていないなんて。それとも、十年も経っているなら仕方がないといえるんだろうか。

 どっちにしろ薄情には変わりないか、なんてどこか他人事のように思いながら新たに生まれた涙が頬を伝っていくのを感じていると、上から深い溜め息が降ってきた。
 ああ、流石に呆れられたのかもしれない。足元で拡大し続ける染みをぼんやり見つめながらやはり他人事のようにそんなことを考えていると、ふいに固い手が髪に触れた。思わず顔を上げると、国君がさっきと同じ困ったような、戸惑ったような(ような、というか実際に困っているし戸惑っているんだろう)顔で私の頭を撫でていた。

「……確か、モンテーニュだったか」
「……な、にが?」
「“泣くことも一種の快楽”、らしい」

 精神衛生上、いいものなんだろう。
 そう言って子供らしくない肉刺だらけの手が、旋毛のあたりから前髪の終わりまでをゆっくりといったりきたりする。
 ぎこちなく、いかにも慣れないといった様子でその手が動く度に、止まらない涙が更に勢いを増していく。素直に“泣いてもいい”と言うこともできない不器用な彼が、この優しい幼馴染が、なんだか愛しくて堪らなかった。

「くに、くん……」
「……何だ」
「ありがと……」

 まだ涙は止まらない。でも数時間ぶりに口角が上がった。モンテーニュだの精神衛生だの、どこまで子供らしくないんだろう。おかしくてつい笑ってしまう。
 私が笑ったことに安心したのか、国君も表情を和らげた。成長するにつれて次第に表情が固くなってきていたので、こんな風に分かりやすく笑った顔を見るのはちょっと久しぶりな気がする。

「もう時間も遅い。早く帰った方が良いぞ」

 送ってやるから、と言いながらポケットから取り出したハンカチを私の手に握りこませると、国君は母親に出掛けてくる旨を伝えに家の中に戻っていった。
 その背を見つめながら、薄情な私には勿体無いくらいの幼馴染だと一人ごちる。


 君がいてくれて、良かった。










Afterword

今回の話はほのぼのではなくシリアス風味で。
手塚は普通の十歳児相手でも同じような変な慰め方をしそう。そして「はあ?」て顔をされる。
そこで「はあ?」とならないところが、ヒロインと手塚が仲良くなった所以かなと思います。子供らしくない語彙や会話のテンポが噛みあうというか。
2009/05/04