眠れる羊の弊害 1
『あー……ちゃんだぁ』
二年振りに顔を合わせた天使は、以前と何ら変わりないぼんやりとした笑顔でそう言った。その数秒後、私は「久しぶり」と返そうとして開いた口を使うことなく崩れ落ちることになる。無論、眠りについた彼共々。
本当に全然変わってない……!と押し倒されたような体勢からどうにか抜け出そうともがきながら彼の将来を心配したのは、もう一月ほど前のことだ。
そしてその一ヶ月で、何回ジロー君に捕まってるんでしょうね、私。
「ねぇ……ジロー君、部活行かなくっていいの?」
ゴロリと転がっている体を揺すりながら問いかけても、んがー、という変なイビキしか返ってこない。諦めずに更に強く揺すってみるが、起きる気配はゼロ。どうしろってんだこのやろう。
桜の花も盛りを過ぎてすっかり新緑の季節となった今の時期は、早春の肌寒さもなくなり非常に過ごしやすい。ので、確かに眠くなるのも分かる。朝じゃないから今の状況には当てはまらないけど、“春眠暁を覚えず”とも言うし。
でも4月になったばっかりの日向ぼっこしてても風が吹くとちょっと寒いような時期に、ブレザーもセーターも着ずにシャツのまま平気で外でごろ寝してたジロー君には絶対にそんなこと関係ないと思う。
入学式の次の日に再会して早々ベッド代わりかというくらい見事に下敷きにされ、已む無くジロー君の昼寝に付き合ってしまってからというもの、私は相当な頻度で放課後ジロー君にとっ捕まっていた。
今だって「今日は読みたい本もあるし、ジロー君に見つからないように早く帰ろう!」といつもは通らないルートを通って帰路に着こうとしていたのに、気付いたらこの有様。一体何処から湧いて出てくるんだこの外見天使のだっこちゃんは!
「ねーえー。この際ジロー君が部活出ずに寝てたって別に構わないけどさ!私巻き込むのやめようよ、ホント!」
わーん!と声を上げてみるも、やはり反応はなかった。いや、別に分かってたことですけど……うん……。
もう抵抗するのもダルくなって、はあーっと溜め息を吐いてうなだれる。やっぱり本、学校に持ってきとけば良かったなぁ。それに今日は数学の課題結構出されたからそれもやらなきゃいけないのに、ああもうジロー君の馬鹿!こんなとこでうだうだしてたら、家帰って課題やり終わる頃には夜になっちゃうじゃんか!
「あ、でも樺地先輩に発見されるのが早ければいけるかも!」
今日中に読破は無理か、と一瞬今日の計画を断念しかけたが、脳裏に浮かんだ一人の先輩の姿に希望を見出す。そうだ、ジロー君のこの困った癖には彼がついてるじゃないか!
実のところ、私は樺地先輩に入学してからこの一ヶ月足らずで相当な回数お世話になっていたりする。まあお世話に、と言っても向こうはジロー君を回収しにきただけで、ジロー君に捕まっている私が間接的に助けられたような形になっているだけなんだけども。
ともかく唯一の希望が早くここを訪れますよーに!と祈るような気持ちになりながら、気持ちよさそうにぐぅぐぅと寝こけるジロー君の頭をせめてもの腹いせにぐしゃぐしゃとかき回す。ええいこの寝太郎めが!
そんなことをしていると不意に私達のところだけ日が陰り、目の前に誰かが立ち止まったのがわかった。ああ来て下さった、私のメシア!
中々の好タイムです樺地先輩!と喜びのままに満面の笑みで頭上を仰ぐと、そこには私が想像した彼よりも小さく、スラリとした体躯の主が佇んでいた。
「やっぱりテメェか、鳳妹……」
あれ?なんだコレ、樺地先輩じゃ、ない……?
不機嫌そうに眉を顰めながら高圧的に見下ろされ、思わずちょっと後ずさる。が、昼寝にお誂え向きな大きめの木を背にしていたため満足に距離をとることもできなかった。
ええと、多分これは、アレですよね。入学式に壇上で新入生歓迎の言葉とか述べてらっしゃった、跡部生徒会長様ですよね?そんでもって、テニスの王子様の、キャラクターでいらっしゃいましたよね?もうなんだかんだで私も13歳ですし、昔読んだ漫画の内容なんてホント記憶の彼方なんですが、この人くらいは辛うじて覚えてます。この人、俺様の人だ!!
何で?何でここでテニス部部長?何で部長自らサボリ魔の部員大捜索?今までは樺地先輩だったじゃん!ずっと樺地先輩だったじゃん!それなら今回もそうだと思うじゃんか!何故ここへきてまさかのイレギュラーだよオイ!!
ど、どうしよう……!とあわあわする私を余所に、跡部先輩はポケットからシンプルな黒の携帯を取り出すと慣れた手つきで電話を掛け始めた。一拍おいてから「中庭だ、来い」とだけ言うと、すぐさまパタンと携帯を閉じて再びそれを右のポケットへと戻す。
「で、何でお前はいつも慈郎の野郎と一緒にいやがるんだ……鳳妹」
「え、いや、何でと申されましても……」
私の方が聞きたいというかなんというか……。
しどろもどろになりつつそう答えると、跡部先輩はチッと短く舌打ちをした。何だよ!本当に私の方が聞きたいぐらいなんだからしょうがないだろ!舌打ちすんな!
ていうかこの人の方こそ何で私が度々ジロー君にとっ捕まってること知ってるんだろう。あれか、やっぱり樺地先輩か!樺地先輩の報告か!あれ、つか鳳妹って、何でこの人私のこと知ってんの?なんかもう色々私の方が質問したいんですが!
頭の中で疑問符を量産しつつも自分から声を掛けるのも憚られて(私のチキンぶり舐めんな)そのまま黙っていると、跡部先輩はおもむろに片足をスイとあげた。そして何だろうかと訝しげに見上げる私の視線など欠片も気にすることなく、その標準よりだいぶ長いその足を、未だ寝こけるジロー君の鳩尾に思いっきりぶち込んだ。あまりの容赦のなさに思わず絶句である。
「っ、ぅ、え゛ほっ、げほ……ぅえ゛ぇぇ……なに〜……?」
「何?じゃねぇんだよこの阿呆が。慈郎、テメェは今何の時間だと思ってやがんだ、あ゛ぁ?」
「ん゛ん……?あ〜、跡部ぇ………………ぐぅ」
げほげほと咽ながらも目の前に立つ跡部先輩に気付いたかと思った直後、ジロー君は再び夢の世界へと旅立っていった。んがぁ、なんて暢気に鼾をかき始めたジロー君に、思わず妙な尊敬の念を抱いてしまう。凄い、この子こんなに露骨に威圧されてるのに、完全スルーだ!
平然と寝続けるジロー君に変に感心してしまった私とは対照に、先輩はアイスブルーの瞳をすうっと細め、整った眉をキリキリと吊り上げていく。どうしよう、睨まれているのはジロー君のはずなのに、まるで私が睨まれてるみたいだ。お願い、起きてジロー君!この人の頭の血管が切れる前に!!
私の願いも空しく昏々と眠り続けるジロー君に「慈郎、テメェ……」と跡部先輩が拳を震わせたところで、不意にまた先輩よりも一回り大きな影が差した。それに気付きちらりと背後に目をやった跡部先輩は、握り締めていた拳を解き、来たかと呟く。
「連れてけ、樺地」
跡部先輩の背後からのっそりと現れた樺地先輩は下された命令にウス、と一つ頷くと、私にしがみつくようにして寝ていたジロー君を軽々と担ぎ上げた。相変わらず中学生とは思えない腕力だ。
軽くなった身体に、やっと解放された……と喜んだのも束の間。私の前から一歩下がった樺地先輩と入れ替わるように、サクと磨き上げられたローファーで芝を踏みしめながら近付いてきた跡部先輩に内心でぎゃあ!と悲鳴を上げる。目の前で、本当に頭上から見下ろすことによってその視線は更に威圧感を増していた。
「おい、鳳妹」
「えっ?あっ、はいっ!何でしょうか!」
「慈郎のやつ引っかけるなら分かりづれぇ所にいるんじゃねぇ!どうせならテニスコートの近くにいやがれ!」
いちいち探すのが面倒なんだよ!と怒鳴られ、あまりの理不尽さに思わず呆然となった。
え っ ? こ こ 、 私 が 怒 ら れ る と こ ?
Afterword
樺地から「最近慈郎は放課後鳳の妹と一緒にいることが多いらしい」ということを聞き出した跡部による直々の出陣。それで慈郎が簡単に釣れるとも思ってないけど、面倒だから試しにコート待機。跡部はそのぐらいの感覚です。
「本当の贅沢ってのは時間を使うことだ」とか言うくせに、人の時間はバンバン使います。
2009/08/05