眠れる羊の弊害 2
ポツポツと現れ始めたジャージ姿の男子生徒達がせっせと準備を進めるテニスコートの片隅。
本来ならさっさと家に帰って読書なり課題なりをこなしているはずの私は、膝を抱えながらはぁ、と重苦しい溜め息を吐いていた。ローファーの爪先で前のベンチをこつんと蹴りながら、どうしてこんなことになったのか……と更にもう一つ溜め息を吐く。
何でこんなことになったのか、なんて言うまでもなくおかしな命令をした跡部先輩のせいなんだけど。もっと言えば、その変な命令の原因をつくったジロー君のせい。
昨日跡部先輩に何故か私まで怒られた後、私は跡部先輩から正式に“放課後はテニスコートで待機しているように”という命令を下されてしまった。本当なら初対面の人間の命令に従う義理なんてこれっぽっちもないんだけど、何故か私はこうして今日の授業が全て終わったというのに未だ学校に残っている。ていうか、テニスコートに。
いくら先輩が怖いとはいえ私が大人しく命令に従っちゃってるのも不思議だが、そもそも何で跡部先輩は私にそんな命令をしたんだかがよく分からない。私は放課後のジロー君との遭遇率が高いだけであって、ジロー君が私の所に来てるってわけじゃないし、別に私がテニスコートにいても特に意味ないと思うんだけどなぁ。
よもや何か、特別な関係にあるとか勘違いしてるんじゃないだろうな……!と悪い想像に頭を抱えると、後ろから聞き覚えのある声で「おい」と声を掛けられた。なんだろうかと振り向くと、やはり見覚えのある仏頂面が私を見下ろしていた。
「あ、日吉君。……えーっと、どうも?」
「……お前ももう中学に入ったんだろ。目上に向かってその呼び方はどうなんだ?」
「え、あーそっか……じゃなくて、そうですね、日吉先輩?」
これでいいかという意味を込めて首を傾げながらそう言うと、日吉君、いや日吉先輩は気が済んだのか何も言わずにふん、と鼻をならした。
そういえば日吉先輩って真面目だし几帳面っぽいし、こういう上下関係きちっとしないのは嫌いそうだなぁ。今まで子供同士な感覚で普通に君付けで呼んでたけど、今考えるとよく許されてたな自分。
「それで、お前何でここにいるんだ?まさかマネージャーになるとか言わないだろうな」
「いやいやいや、まさか!それはないです。大変そうだし、その、色々と」
私は入学してからの一ヶ月で色々と聞き及んでいるテニス部レギュラーに関する(というかそれを支持するお姉さん方の?)噂話を思い出しながらそう言ったが、日吉先輩は違うものを思い浮かべたらしい。「当たり前だ。お前が入ってあいつが面倒なことにならないわけないだろ」と至極嫌そうに眉を顰めた。まあ、それもありますけど……。
「なら何でテニスコートにいるんだ。こんなとこで座り込んでないでさっさと帰ればいいだろ」
「いや、私もそうしたいとこなんですけど、跡部先輩が……」
「はあ?」
跡部部長?と怪訝そうな声を出され、うんと頷く。そして命じられた内容を話せば、はっと鼻で笑われた。
「それで、お前は大人しくそれに従ったってわけか?初対面の先輩にそう言われただけで?」
「……そんなこと言ったって、怖かったんですよ、跡部先輩に上から見下ろされるの……」
そう言えば再び鼻で笑われ、ついでに「お前、馬鹿だろ」の一言まで添えられた。
別に、自分でも思わなかったわけではない。ただちょっと顔を合わせただけの先輩の言葉に、何で従わなきゃいけないんだと。確かにあの人はテニス部の部長だったりその上生徒会長までやってたり、色々と影響力のある地位に就いてはいるが、だからと言って言うことを聞かなきゃいけないということはない。
でも、仕方ないじゃん!もの凄い『俺様の言うことに従いやがれ』オーラ垂れ流してんだもん、あの人!!私だってできることなら昨日の一件なんてなかったことにして今日も平和に読書してたかったよ!今度国君に貸す約束してる本、まだ読み終わってないし!でもあの人何でか知らないけど私がちょた君の妹だって知ってるもんだから下手に無視とかできないんだもん!無視したら後で接触してきて何かしら言われちゃうかもじゃないか!!これ以上理不尽なことで無駄に怒られるのなんて嫌なんだってば私!!
跡部先輩と同じように私を見下ろす(まあ私が小さいせいだけど)日吉先輩にそう言い返す気にもなれず、心の中でわぁわぁと必死に喚き立てる。どうせ言ってみたところでまた鼻で笑われるだけなのは分かりきっていた。伊達に幼稚舎からの付き合っているわけではない。
ちくしょう、どうせ私なんて……!と自棄気味にいじけていると、そんな私を余所に日吉先輩が不意に会釈をした。誰か来たのかと日吉先輩の視線を追って振り向くと、随分身長差のある二人の男子生徒。日吉先輩が会釈をしたってことはおそらく3年生だろうか。
会釈した日吉先輩に気づいたらしい赤髪の小柄な人が「おーす、日吉ー」と片手を上げながら歩いてくる。ああ、うん、この奇抜な髪型と色からいって、きっとテニプリのキャラですね分かります……。
そんなことを考えながら先輩らしいので一応私も会釈をすると、もう一人の眼鏡を掛けた長身の人(ていうか丸眼鏡って……)がニッと口角を上げて「なんや、日吉彼女おったんか?」と言った。その途端、日吉先輩はギッと眼光鋭く先輩を睨みつける。
「違います。下らないことを言わないで下さい」
「はいはい、分かったからんな睨まんとき。日吉が珍しく女子とおるもんやからもしかしてと思たんやけど………、ん?」
日吉先輩に睨みつけられたまま話していた眼鏡の先輩がチラ、と私に視線を寄越す。そして私の顔を認識した瞬間、面白そうに細められていた目がパチリと大きく開かれた。
「なんや、自分、ちゃんやんか」
「え?あ、ホントだ、じゃんか。練習見に来たのか?」
「…………え?」
何で私のこと知ってんの、この人達。何で普通に知り合いみたいに声掛けられてんの、私。しかも何故いきなり名前呼び?
わけが分からずに戸惑っていると、そんな疑問が全面に出ていたのか「すまんなぁ、いきなり」と眼鏡の先輩が人好きのしそうな顔で笑った。
「俺ら、自分の兄貴と部活一緒なん。一応先輩やねんけど」
「はぁ……」
「ちゃんの話、よう聞かされててなぁ。そん時に写真も見せられとったもんやから、自分見てちゃんやてすぐ分かってん。びっくりさせて悪かったわ」
堪忍な、と軽く頭を撫でられる。ああ、納得……、と遠い目をするほかなかった。日吉先輩もよく『お前の話を延々と聞かされてうんざりする』みたいなことを言っていたし、この人達もその被害者ということだろう。
初めて日吉先輩にそれ言われたときも思ったけど、ほんとに何やってるんだろう、うちの兄。しかも写真付きでとか、本気で勘弁してくれないかな!はっずかしい……!あっ!ていうか跡部先輩が私のこと分かったのってそのせい!?あの人、跡部先輩にまでそんなことしてたわけ!?何それもう恥ずかしいの通り越して恐ろしいよ!!
「そっか、そういやは俺らのこと知らないんだよな。俺、向日岳人っての。こっちは侑士な。忍足侑士」
「あっ、はい。えっと、鳳です、よろしくお願いします」
「ん、よろしくな。なんや、あんまり話聞きすぎて知らん子やって気がいまいちせぇへんけど」
苦笑い気味の忍足先輩の言葉に、うんうんと頷く向日先輩。初めて会う気がしないって、ホントにどんだけ話してんだよちょた君……!!
「あの、ホントすみません。うちの兄が、何やら迷惑な話を……」
「あー、まあ、アレはちょお行き過ぎとるけど……ちゃんのせいとはちゃうし、別に自分が謝る必要はないで?」
「や、でも自分の話だと思うと、やっぱり……」
「それよかさぁ、侑士んなトコ鳳に見られたらヤバいんじゃね?」
よしよしと再び私の頭に再び手をやった忍足先輩に、向日先輩がそう言ったのとほぼ同時。突然背中に重みを感じ、自分の体を支えきれなくなった私は重力に従って前方に倒れた。
「っと、」
「う、わ。すみません!」
「や、別にええねんけど……オイ、お前何しとんねんジロー!」
危うく地面と事故ちゅーをかますところだった私を片手でひょいと救ってくれた忍足先輩(感謝、超感謝!)は、顔を顰めて私の背中にいる犯人を引き剥がした。ええい、やはりお前かぁ!!
「お前そのキャラなら何でも許されるとでも思っとんのか!ええか、お前のそれは立派なセクハラや!おいコラ、起きろやジロー!!」
「……ん゛〜、なに……」
「何とちゃうわボケ。初対面の女子に早速やらかすな言うとんねん」
「そんなことしてないよー……今のちゃんでしょ〜?知らない子じゃないC〜……」
もごもごと眠そうに言葉を紡ぐジロー君を、「お前が知っとっても相手が知らんかったら意味ないやろ!」と忍足先輩が叱りつける。わあ、こんなジロー君を、いつも「まあ、慈郎だしね……」の一言で済ませられてしまうジロー君を、ちゃんと怒ってくれてる……!
今までジロー君の周りにいなかった人材につい嬉しくなるが、その反面どうしよう、と思ってしまう。一生懸命説教してくれてるもんだから、「実は面識はあります。ついでにさっきみたいなことも日常茶飯事でした」とか、言いづらいよなぁ……。
「だからぁ、知ってるんだってば〜……ねーちゃん?」
「え、あー、あの……一応、幼稚舎の頃に……」
「えっ、マジなん?せやったんか……いや、でもいきなり後ろからのしかかるんはおかしいやろ。よう聞けジロー、知り合いや言うても気軽に女子に抱きついたらアカンで」
「えー……何ソレ、やだ。だって枕にするなら自分の腕よりちゃんの膝のが柔らかくて気持ちいいC〜」
あと何かE匂いするから好きー、と間延びした声で言うジロー君の後頭部にスパーンと忍足先輩の平手が炸裂する。わあ、凄くいい音。でも先輩、「何羨ましいこと言うとんねん!」の一言は余計です!
「ジロー、もっぺん言うで。女の子にそういうことしたらアカン。特にちゃんにそういうことしたらアカン!お前、ここ何処やと思とんねん!テニスコートやぞ!?」
ガシリとジロー君の両肩を掴んでそう諭す忍足先輩の顔は真剣そのものである。おお、やはりテニス少年にとってテニスコートは神聖な場所だ、とかそういうことなのか。熱いなぁ。青春っぽい。
すごいなぁ、なんて思いながらそれを見ていたが、続く忍足先輩の言葉にそんな感心は打ち砕かれた。
「放課後のテニスコート言うたら、アレや!鳳出没区域や!!そこでちゃんに抱きつくんがどういうことか、お前には分からへんのか!!」
お前は自虐趣味でもあるんか!ないやろ!?せやったら止めとき!!
真剣な表情のままジロー君にそう言い聞かせる忍足先輩の傍らで、日吉先輩に怪訝な顔をされるのも構わず私は膝をついた。
ちょた君、君ってやつは先輩にどんな認識をされて……!!
でも、『どういう意味だろう?』とは思えない自分が、確かにいた。
Afterword
兄はロッカールームでも何かにつけて「が〜〜で」と話し出すので「あー、分かった分かった!聞いてやるから!そんでがどうしたんだよ?」という具合にR陣の中でも名前呼びが浸透していった訳ですね。
兄が喋りすぎて皆「最近は〇〇に凝ってるらしい」とかちゃんの情報に妙に詳しかったりします。本人としては正直気持ち悪い。
2009/08/15