オペラ座の紳士 2


 あーあ、大人の立ち話って長いよね。きっと普通の幼児だったら、つまんなくなって公共の場とか関係なく騒ぎ出しちゃってるところだよ。良かったな、父。私とちょた君がいい子で!
 未だ和やかに話し続けている二人を遠目に見ながらそんなことを考えて、ふとそういえばちょた君さっきから静かすぎやしないかということに思い至る。どうかしたかな、と振り向くとちょた君は不審そうな顔でお父さん達がいる方を見ていた。

「ちょた君?えと、どうかした……?」
「……、あの人、だれか知ってるの?」

 ぼく、ぜんぜん分からないんだけど……。
 眉を顰めながらそう言われ、そういえばちょた君は榊さんと会ってなかったんだと思い出す。私が榊さんに迷子アナウンスを入れてもらって両親と合流した時、ちょた君はいなかったのだ。はぐれた私を探して二次遭難、いや二次迷子になっていたせいで。正直アナウンスをかけてもらえた私より、私のことを探し回っていて迷子センターになんて行くはずもないちょた君を探す方が大変だった。

「あのね、まえにショッピングモールでわたしがまいごになったときにおせわになったの。そのときちょた君はわたしのことさがしてくれてたからいなかったんだけど」

 そうなんだ……、とちょた君は私の答えに頷きはしても、顰めた眉を戻すことはなかった。本当にどうしたんだろう、と思っていると「じゃあ、あの人は何でのこと名まえで、しかもよびすてにしてるの……?」と珍しく不機嫌そうな声でちょた君が呟いた。

「えーっと、それは、みょうじだとだれのことだか分かりにくいからじゃないかなぁ……?」

 もし“鳳さん”とか呼ばれたら、娘の私よりうちの父親のことを指してるんだと思っちゃうよ普通。あ、でもあの人初めて私に会った時から名前呼びだったな、そういえば。まあ今のちょた君の様子を見るに、面倒臭いことになりそうだから態々言うつもりはないけど。
 そっか……、とやはり眉間に皺を寄せながら呟くちょた君はさっきまでの幸せオーラが嘘のように消えている。そんなに気に入らないのか、榊さんが私の名前呼ぶの。でも将来私と君は多分彼に教えを受けるんだぞ。何の教科担当なのかまでは知らないけど。

「長太郎、ちゃん、お父さんお話終わったみたい。そろそろ中に入れるみたいだから、行きましょう」

 テンションガタ落ちなちょた君をまぁまぁと宥めているとお母さんに小さく声を掛けられ、はぁいと返事をしながらソファーから降りる。ちょた君にほら、と手を差し出すと機嫌は元通りにならないながらもしっかりと手は繋いできた。
 ほら、もうきげんなおして!とどっちが年上なんだか分からない会話をしながら(まあ精神的に本物の幼児と幼児もどきなんだから当たり前なんだけど)お父さん達の元に戻ると、何だか榊さんは私達家族と別れる様子もなく一緒に佇んでいた。もしかして一緒に?と思って榊さんを見上げると、私の視線に気付いた榊さんがスッと膝を折って目線を合わせてくれる。

「今、君達のお父さんを誘わせてもらったところなんだ。達が観る予定だった席とは違ってしまうんだが、良かったら私の席の方に来ないか?良い席であることは保証しよう」

 どうかな?と私とちょた君に聞いてくる辺りお父さんだけでなくお母さんも了承済みなんだろうなぁ、と思いながら別に嫌がる理由もないのではい、と答えると榊さんは薄く微笑んだ。幼児にもちゃんと意見を聞いてくれるなんて良い人だ。ああでも、と思いつつ横に立つちょた君に目をやると、やはりというか、凄く複雑そうな顔をしていた。おおい、ちょっとぉ!本人目の前にいますから!兄自重!
 幼児に対して、もっと大人の対応を!と無茶なことを考えつつクイクイと繋いだ手を引いてちょた君、と声を掛けるとちょた君は眉を下げながらもこくりと頷いた。よしよし、えらいぞ。微妙な感情を抱いてる相手でもこういう時は「いやぁ、嬉しいです!」みたいな顔しておくのが大人ってものだ。ちょた君も私もモロ子供だけど。

 それから私達は榊さんに案内されるままにホールの中に入っていったわけなんだけど、榊さんがとっているという席に着いた時、私は漸くおかしいことに気が付いた。うん?ここ、一体何ランクの席なんですか、榊さん?
 ちょっと、ちょっと待てよ、このステージを見渡せる感じといい、周囲の客があんまり気にならないような席のつくりといい、嫌な予感がする……!!周りの席を窺ってみても、絶対こっちの席のが良い席だって分かる。そうだよ、榊さん自身良い席だって言ってたし、そもそも榊さんみたいな人が安い席で観るはずないし……ここ、ほぼ確実にS席!!
 ううう、うえー!マジですか!私、私知ってるんだからね!さっき暇でパンフ読んでたから知ってるんだから!今回の公演、記念公演だからか指揮者とか歌手とか妙に有名な人呼んでるらしくて(だからこそオペラ好きのうちの父が行きたがったんだろうけど)、外国のオペラハウスの引越し公演並みにチケット馬鹿高いって!知ってるんだぞ、F席でも一万近くするって!どのランクの席をとったのか知らないけどそんなチケット4枚も買ったのかとさっきビビッたばっかだってのに!
 きゃー!S席っていくらだった?いくらだった?と焦っていると、?と榊さんに呼び掛けられてハッと我に返った。え、あれ、ちょ、父も母も何で何時の間にか先に座ってるんですか。仲良くなったぽい父の隣に榊さんが座るのは当然として、何故私が榊氏の隣か!ていうか鳳家で榊さんサンドイッチってどういう状態?いや、そりゃあ元々この席で観るはずだった榊さんを端に追いやるのもどうかと思うけども!
 そんな風に内心でわぁわぁ言いつつも、とりあえず榊さんを警戒しているちょた君を榊さんの隣に据えるわけにもいかないので、しつれいします……と小さく断りを入れて素直に隣の席に座っておいた。本当に、恐れ入ります……!

は、オペラは好きかい?」
「え、あ、はい。あの、兄といっしょにヴァイオリンをならってますし、おんがくにはきょうみがあるので……」

 てっきり開演時間まで隣の父と話すものだと思っていた榊さんに急に話しかけられ、若干つっかえつつもそう答えるとそうなのか、と微笑まれた。

「実は、私は趣味で音楽教師もしていてね。君はどんな演奏をするんだろうな」
「え、そうなんですか?でも、あの、まだぜんぜん人にきいてもらうようなレベルじゃないですから」

 うわー、この人音楽教師だったんだ。なんか、納得って言えばいいのか意外って言えばいいのかよく分かんないな……。なんとなく語学系かと思った。フランス語とか、その辺りの。そんなことを考えつつ、次に何を言っていいのかわからなくなって咄嗟にあの、と言ってしまった。ぎゃあ、あのじゃねえ!別に話すことないだろ私!

「何だ?」
「えー、と……あの、すごくいいせきなんですね、ここ。その、ステージぜんたいが見えますし」
「ああ、一応SS席だからね」

 ……?SS?
 確かS席までしか書いてなかったよなぁ、とパンフレットを思い出しつつ「Sせき、じゃないんですか?」と尋ねるとナチュラルにSSだという答えが返ってきた。

「さっきパンフレットを見たときには、Sまでしかかいてなかったとおもったんですけど……」
「ああ、普通に売っているチケットはS席までだったかな。ここは少し特別な時に使う席なんだよ」

 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ! ?
 一般には販売されてない席?何ソレ、それって所謂、VIP待遇ってヤツですか。え、流石榊氏って言えばいいの?ていうか私達連れてきちゃって良かったの?いや、いいのか、VIPだもんな……。大抵のことなら何しても平気なの?
 おお、恐ろしい……!!と榊さんのセレブぶりを改めて認識させられてこっそり戦慄きつつも、でもこんな席で観られることもうないだろうし!と思い直し今日は思い切り楽しんでおくことにした。さー、もうそろそろ開演のお時間です!








「良い舞台でしたね……」

 オペラがはねてからしみじみと呟いたお父さんの言葉に、うんうんと頷いて目一杯肯定の意を示した。
 オペラ鑑賞歴はまだまだ浅い素人で、舞台の良し悪しなんて分からないけどとにかく凄かったのは分かりました。語彙が貧困に思われそうでちょっと嫌だけど、その一言に尽きます。凄かったです。音楽も歌も演出も、全部心臓まで届く感じ。榊さんありがとう!今日で私オペラに超興味持った!前より俄然興味津々です!榊さんに会ってからずっと八の字だったちょた君の眉も元通り!


 その後妙にうちの父と話が合ったらしい榊さんは私達を食事に誘ってくれて、これまたすごーく美味しくて高級そうなフランス料理のお店に連れてって下さいました。
 そこで更に父と意気投合しちゃった榊さんが『もうこんなに良い席でオペラを観ることはないだろう』という私の予想を裏切って、私達家族をよくオペラに招待してくれるようになるのはもう少し先の話。そして偶の機会に家に招待しては一緒に食事をとるまでになった榊さんが、時々私とちょた君のピアノやヴァイオリンをみてくれるようになるのは、それよりもまた更に先の話です。










Afterword

関係的にはあれです、よく顔を見せにくる親戚の叔父さんくらいの感じで。
叔父さん、子供いないもんだから鳳兄妹を妙に可愛がって何かと貢ごうとすればいいと思います。そして音楽について色々指南する過程で妙に警戒心を抱いちゃってた兄ともある程度打ち解ければいい。
そんなこんなで榊はちょたのことも名前で呼ぶようになりますが、中学でテニス部に入った時に苗字呼びに変わります。公私混同はしない、ってことで。
2009/09/09