「あ、おはよーちょた君。誕生日おめでとー」
14日の朝。朝食をとるためリビングへと降りてきたちょた君に向かって開口一番にそう言うと、その瞬間ちょた君の顔が急激に弛緩した。
「ありがとう、」
へにゃん、って感じの擬音が似合いそうな顔で笑うちょた君は、今日でまた一つ大人に近づいた訳だ。まあ歳さえ重ねれば大人と呼べるかといえば、それは違うと思うけどね。でも世間的にはとりあえず大人に近くなったってことで、何はともあれめでたいです。
「今年はちょうど休日だし、ゆっくりお祝いできるね」
「うん、学校がないのは嬉しいな。と一緒にいられるし」
「まった恥ずかしげもなくそういうことを……。あーもうそんなちょた君にはこれをあげます」
はい、と握った手をちょた君の前に突き出すと、ちょた君も反射的にその下へと手を差し出す。それを確認してからパッと手を開けば、コロンと転がり出るいくつかの小さな固まり。
色々なフレーバーが特徴のカラフルなそれは、いわゆるチロルチョコという奴である。1個10円という非常にチープなチョコレート。
「ハッピーバレンタイン、ちょた君。今年のチョコはそれだよっ」
語尾に星マークがつきそうなテンションでそう言いながら、ニコッとわざとらしいまでの笑顔を向ける。どうだ、この『バレンタインチョコがまさかのチロル』というある意味ベタなネタは!
バレンタインの前日である昨日、偶然にも自分がチロルチョコを所持していることに気づいて急遽試してみることにした計画(という程のことでもないけど)を無事実行できたことに私が変な満足感に浸っていると、ちょた君はチョコの乗った自分の手を見てにこりと笑った。
「ありがとう、嬉しいよ」
それから手のひらに転がる一つをひょいと摘んで、「あ、ミルクだ。俺ミルク好きだよ」なんて言っている。大事に食べるね、と微笑むちょた君の顔に、冗談の色はない。
「えーっと……その、素直に受け入れられちゃっても困るんだけど……。ちょた君、それ、チロルチョコだよ?」
「うん、そうだね」
「……え〜。……ええ〜?なんで受け入れちゃうの?」
つまんね、と内心で勝手な不満を吐きつつそう聞くと、ちょた君は「だって、」とやっぱり嬉しそうに笑った。
「がくれるならなんでも嬉しいし、それに…………がバレンタインのことより先に俺の誕生日を祝ってくれただけで、俺は十分だから」
その言葉を聞いて、私は思わず「ごめんってば!ちゃんと作るよ!ちゃんとフォンダンショコラ作る予定立ててたんだから!!」と叫びながらリビングを飛び出した。
そんなに低く見ないでよね!ちゃんとプレゼントも別に用意してるんだからね!バレンタインといっしょくたになんか、してないんだからね!
(純度……!埋まらない心の純度の差が……!)
Happy Birthday &
Valentine!
ふと気付くと、目の前が真っ白だった。というより、全てが真っ白だった。周りを見回してみても本当に何もなく、ただただ白い。そんな空間にぼんやりと立ち尽くしていた。
よく分からないが、とりあえず移動してみようと足を動かしてみる。しかし目印になるようなものが一切ないので自分がきちんと進んでいるのか、それとも足踏みばかりで止まったままなのかさえよく分からない。それでも他にできることもないので、とりあえず歩き続けてみるしかなかった。
暫くそうして不毛な行為を続けていると、今まで何も見つけることのできなかったまっさらな視界の中に、淡い色彩が浮かび上がった。不意に現れたそれを訝しく思うこともなく、自然とその方向へ足を向ける。徐々に近くなるそれにやっと自分が移動していることを実感した。
近づく度に、どんどんと輪郭がはっきりしてくる。緩く波打つミルクティー色の髪。それを何気なく弄ぶ滑らかな真白の手。視界を覆うその色とは違う、生気のある白の肌。
あと一歩で手が届く、というところでその人影がくるりと振り返る。背に長く垂れていた髪が逃げるように翻り、不思議そうに見上げてくる蜜色の瞳と目が合った。
心の中で「琥珀みたいだ」と呟いた瞬間に世界が弾けて、ゆっくりと目を開くとそこは何の変哲もないリビングで。
目の前に立つが、小首を傾げる様にして緩く微笑んだ。
「―――っていう、夢を見たんだ」
「ふーん……?変な夢だねぇ」
それまで静かにティーカップを傾けていたは、話を聞き終えるとそう言って夢で見たと同じような仕草で少しだけ首を傾げた。淡くゆらめくミルクティーをもう一口嚥下して、カップから口を離す。シンプルなジノリのそれをソーサーに戻すと、は「まあ、夢なんて大抵よく分かんないもんだけど」と呟いた。
「あ、そういえば私もちょっと前に変な夢見たよ。なんかね、パトラッシュ的な犬に唐突に家に招待されてさー」
その家が何故か完璧なまでにバリアフリーで、と今度はが夢の話を始めて、俺はうん、と軽く相槌を打った。その声に耳を傾けながら、心の中で「俺はなんとなく、分かる気がするなぁ」と呟く。
多分、きっと、あれは。あの場所は。
(普通に、俺の世界だったんじゃないかな)
自分は今、当然のように色々なことを感じることができている。
こうして好きな銘柄の紅茶を飲めば美味しいと感じるし、差し込む陽の光は暖かく優しいものだと思える。リビングの隅に置かれたスピーカーから微かに流れるピアノの音色は美しいと思うし、CDではなくLPレコードを好む父のこだわりを理解することもできる。
けど、もしもこの世界にがいなくなったとしたら、どうなんだろう。俺はちゃんと世界を、感じることができるんだろうか。
(無理、かも)
何も、感じられないかもしれない。何も楽しくないし、嬉しくもなくて、だからといって悲しくもなくて。
きっとあれは、俺の世界なんじゃないかな。がいなければ、何もないのと一緒だって。あの夢は、そういうことなんじゃないのかな。
(だからあれは、ただの真っ白な空間なんかじゃなくて)
のいなくなった俺の世界、だったりして。
そんなことを考えながら、ゆっくりとカップを傾ける。ちょた君、どうかした?と見上げてくる蜂蜜の瞳に、俺はなんでもないよと微笑んだ。
(がいてくれれば、なんでもないよ)
それは何もない場所。
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