トン、トトン、トン、トン。
カウンターの内側に備え付けられた椅子にだらしなく腰掛けて、イヤホンから流れる音楽に合わせて指先でリズムを刻む。この静かな空間の中でもし目の前の古びたカウンターで行ったならすぐにでも非難の目を向けられるであろうその行為も、自分の膝でやる分には誰に迷惑を掛けるわけでもない。
しかし室内に並べられた他のものよりもほんの少しだけ上等なその椅子に片膝を立てて座り、その膝の上で広げた雑誌を眺めながらもう片方の膝でトントンとその行為を繰り返す俺の姿は大抵の人間が不遜だと眉をひそめる類のものだろうというのは流石に自分でも分かっている。分かってはいるが、それを俺が気にするかと言えばそれはまた別なわけで。
(あー、ねむ……)
パラ、と片手で雑誌のページを捲りながら、はばかることなく欠伸を漏らした。空調の効いた図書室は過ごしやすく、昼食をとった後ということもあってすぐに睡魔が忍び寄ってくる。
四天宝寺中学の図書委員の仕事は、ほとんど暇を持て余すことだと言っていい。騒がしい気質の人間が多いこの学校ではそもそも折角の昼休みに図書室を利用しようという者自体少なく、その中でも本を借りるためにカウンターへやってくる人間といえば大体決まっている。そいつらの貸し出し手続きを終えれば、後は時間までとにかくダラダラと過ごすだけだ。とは言っても、当番のない昼休みも同じように音楽を聴いたりして過ごしているだけなのだが。
とにかく普段はそんな風にして適当にやり過ごしていた図書当番だが、最近まではちょっと他の事に時間を費やしていた。
「……ん、ああ、先輩」
カラ、と音を立てて開かれた扉の向こうからひょいと覗いた覚えのある顔に手探りで音楽を止めて、ども、と短く声を掛ければ、その人は「あ、うん、ちょっとお邪魔します」なんて言いながらそっと室内へ足を踏み入れた。別に今は俺しか居ないわけだし、そんな断りを入れる必要はないと思うが。というか『失礼します』ならまあ分かるものの、『お邪魔します』って。
「……別にここ、俺ンちとちゃいますよ」
「あ、いや、勿論それは分かってるんだけどね」
でも財前君、いつも自宅並みにくつろいでるよね。俺の城って感じ。
そう言って俺の不遜な格好に呆れを通り越して感心したような溜め息を零すこの先輩こそ、俺がつい最近まで時間を割いていた“他の事”である。ここに来るようになった先輩に視線を送り続けること数ヶ月、この間漸く正面からその目を見ることができた。まあ数ヶ月と言っても週に1回のことで、時間にすれば大したことはないのだろうが。
俺が先輩のことを初めて知ったのは、今から1年以上も前のことになる。いや、知ったというよりも、“見た”と言った方が正しいだろう。ただ、俺が先輩の顔を覚えてしまったというだけだった。
その切っ掛けは、別になんてことはない。ただ入学式の日、新入生に『入学おめでとう』と書かれた花飾りを配る係りの中で俺の胸に花をつけたのが先輩だったというだけだ。
『入学おめでとう。はい、花付けるからちょっとじっとしててね』
先輩は最初俺に対して妙にオドオドしていた理由として『ピアスを5個も付けてるからなんとなく怖そうなイメージだった』というものを挙げていたが、この頃は流石にピアスもしていなくて、ワックスで髪を弄ったりもしていなかった。当然先輩は何の変哲もないごく普通の新入生である俺に何もビビることなどなく、そんな言葉と共に笑顔で俺の学ランに安っぽい造花を飾り付けて。普段テレビ以外ではほとんど聞くことのない標準語に思わず先輩の顔に目を向けると、俺の胸から手を離した先輩は「これから頑張ってね」と言ってもう一度にこりと笑った。
先輩のことが俺の記憶に刻まれたのはほとんど偶然のようなもので、本当に“なんとなく”という言葉がぴったりだ。恐らくはその標準語のせいもあると思う。とにかく、俺はなんとなく彼女の顔を覚えていて、そして時折なんとなく思い出しては「そういや校内で見たことあらへんな」なんて思ったりしていた。
そしてそんな風に先輩のことが頭の片隅に残りつつも、それなりに勉強したりテニスに打ち込んだりして何気なく学校生活を送ること1年。私立のようにだだっ広いわけでもないこの学校で同じように生活しているはずなのに、まさか一度も見掛けることがないとは思わなかった。ここでは目立つだろう標準語も一度たりとも耳に入ってこなかったのだから、同じ空間にいたことさえないのかもしれない。
だからいつも通り図書委員としてカウンターの内側でだらだらと時間が経つのを待っていた俺の前に急に先輩が現れた時は、驚きで数秒間動きが止まってしまった。なんというか、それまで視界を掠めることすらなかったので、もうそういうものなんだろうと思っていたのだ。
「それじゃ私、適当に本見繕ってくる。財前君は真面目に仕事してようね」
「俺は常に真面目に生きとるつもりッスわ」
初めの頃の変な硬さもなくなって、にこりと入学式の時と同じような笑みを浮かべるようになった先輩に平淡な声でそう言い返せば、「うーん、“つもり”って便利な言葉だなぁ」なんて呟きながら先輩は本棚の奥へと消えていった。
それを追いかけるように俺も身を起こし、カウンターに頬杖をつく。途中だった楽曲を再生させながらふと窓の方に目をやって、ギラギラと降り注いでいる攻撃的な日差しに今日の部活も地獄になりそうだと溜め息を吐いた。
先輩が初めて図書室に来た時、季節はまだ春だった。新年度が始まったばかりで、図書室の窓のすぐ横に立つ桜の木も徐々に増えていく新緑の中にまだ淡い色彩を残していたはずだ。確か委員会で担当する曜日を決めてから、二度目の当番の日だった気がする。
俺はその時入学式の日からついぞ見掛けることのなかったその人が急に現れたことに驚きながらも、やっぱちゃんと学校にはおったんやな、なんて思っていた。本当にただの一度も見掛けないものだから、もしかすると不登校だとか、そういった何かの事情であまり学校に来ていないような人なのかもしれないとも考えていたのだ。
その日、先輩はしばらく検索用のパソコンを弄った後その辺の本棚から1冊の本を選び、カウンター近くの席へ腰を下ろすと静かに本を読んで過ごした。そして予鈴が鳴るとパタリと本を閉じて、静かに図書室を出て行く。仕事もないのでその一連の様子をなんとなく眺めていた俺は、その行動に「なんや、本借りるんとちゃうんか」と多少落胆した。
うちの学校の図書室は1人1人に配られる名前入りの図書カード(普通の紙をラミネートして補強しただけのめっちゃ安っぽいやつ。その上やたらダサい)を使って貸出手続きをするので、なんとなく名前が分かるかもしれない、なんて考えていたのだ。そう、なんとなく。
その時は別に、何か特別な感情があったわけではなかった。ただ、なんとなく気になるだけで。しかしそれからも図書室へやって来るその人を眺めるうちにやっぱり名前が知りたくなって、図書室へは来るくせに本を借りようとはしないその人に本は借りないのかと聞いてやろうと思った。
それを『目が合ったら言ってみよう』と決めたのは、本当に、それこそ“なんとなく”と言うべきただの思いつきだった。強いて理由を考えるとするなら、それまで一度も目が合ったことがなかったからだ。電車やファミレスなんかで偶然近くに座った赤の他人でも、度々視線を向けていればうっかり目が合ったりしてしまうもの。じろじろ見とれば目ぐらいすぐ合うやろ、なんて思っていた。
しかし実際のところ、俺が先輩に声を掛けるに至るまでには数ヶ月もの時間を要することとなった。最初は案外合わへんもんやな、くらいにしか思わず楽に構えていたが、あまりに先輩がこちらに視線を向けないものだから途中からは半ば意地になっていたような気がする。
この人わざととちゃうか、なんて心の中で悪態をつきながら、俺は睨むようにして視線を送り続けていた。