(ほんま、ここまで時間くうとは思わんかったわ)
ぼんやりとそんなことを考えていると、そのうち本を選び終えたらしい先輩が1冊の本を片手に本棚の間から軽やかな足取りで戻ってきた。どうやら好みの本が見つかったらしい。
俺の方に視線を向けることもなく一直線に机に向かい、静かに椅子へと腰を下ろすと先輩はいつものように本を広げて目の前の活字に集中し始めた。そして俺もいつものように、片耳で音楽を聴きながらそんな先輩の様子を眺めて過ごす。
文字を追って伏せられた、長い睫毛。
パラ、と本のページを捲る白く細い指先。
時折耳から零れ落ちる、濡羽の髪。それを直す些細な仕草。
そういった先輩の1つ1つを、一々注視してしまう。結果的に先輩を見つめ続けることになった予定外の月日は、全く持って厄介な感情を俺の中に残していった。目が合って、声を掛けて、名前を知って。それらの過程がスムーズに済んでいれば、多分こんな風にはならなかったはずだ。少し気になる先輩、というだけで、終わっていたはずなのに。
やっぱ結構めんどいんやなぁ、こういうのって、と自分の中のもやもやとした感情をちょっと落ち着かなく思っていると、本に没頭していると思っていた先輩がふと顔を上げて俺を見た。
「あのー……財前君。前にも言ったと思うけど、見られてると読みづらいんだよね、本」
「……気にせんでええッスわ」
「いや、それができないから言ってるんだけど」
「あーはいはい、分かりましたって」
見んかったらええんやろ、と言いながらカウンターに伏せて先輩から視線を外せば「うわー、態度悪い」という呟きが聞こえてきた。
(うっさいな。それ言うんやったらアンタの方は察しが悪いわ)
内心で悪態をつきながら、視線を外した変わりに「なあ、先輩」と声を掛ける。それからチラリと先輩をうかがえば、「何?」と本から顔を上げて俺の方へ視線を寄越していて、それに満足した俺は「先輩がこっち来たんいつでしたっけ」なんて前にも聞いたような話を適当に振った。話題なんて、然して重要ではない。
「ん、小6の時だよー」
ベタに親の転勤でね、なんて言葉を最後に、また図書室に静寂が訪れる。見なくても分かる。きっと今、先輩の視線は俺ではなく紙面に綴られた活字どものものだ。それならば、もう一度。
「先輩」
「んー?どしたの」
「先輩、何組や言うてました?」
「えー、この前言ったばっかな気がするんだけど。まあいいわ、1組ですよ、1組」
シャカシャカ、という小さな音楽の欠片が俺の胸元辺りに垂れるイヤホンから零れて、室内に響く。チラリとまた先輩の方をうかがうと、やはり視線は本へと落とされていた。
「なあ……、先輩、」
「んー……?」
「先輩て」
「だから、なぁーに」
「…………何で、ここ来るんスか?火曜の……昼だけ」
ゆっくりと上体を起こし少しの沈黙の後に振った話題は、然して重要ではないもの、ではなかった。
この学校の図書委員には普段、仕事がない。それはもう、本当にない。年に何回あるか分からない蔵書の整理や、新書が届いた時にだけ行うバーコードを貼ったり図書室の判を押したりする作業以外には、本当に短時間で終わるものしかないのだ。
普通の学校であれば大抵クラスに2人くらいだろう図書委員はそんな理由からこの学校ではクラスに1人だけで、大体同じ学年同士が2人組になって決まった曜日に当番の仕事をこなすことになっている。しかし、それでもまだ多かった。正直に言って2人がかりでやる必要のある仕事など前述した作業以外ない。純粋に、暇を持て余す人間の数が増えるだけだ。なので大体の奴らは週に1回の当番を更に昼休みと放課後とで分担して無駄な時間を減らしている。
俺も当然そういう奴らの中の1人で、帰宅部の生徒と組んだテニス部員の俺が昼の担当になるのは自然な成り行きだった。
詰まるところ何が言いたいのかといえば、火曜の昼の図書室といえば俺の領域だということだ。
図書室の本なんて曜日によって違うわけでもなし、他の曜日や時間と火曜の昼とを比べた時に浮んでくる違いなんて、俺という存在の有無ぐらいしかないわけで。
自惚れるわけではない。勘違いだったら痛過ぎる。でもそこに微かな期待を抱いてしまうのは、間違ったことではないはずだと思いたい。
「なあ、何で?」
急かすようにもう一度問い掛けると、先輩が本から顔を上げて俺の居るカウンターを振り返った。それから何でもなさそうな顔で「ああ、それねー」と呟く。
「いやー、私いつも友達と2人だけでお昼食べてるんだけど、その友達に彼氏ができてね? そんで偶には彼氏ともご飯食べたいって言うから、毎週火曜は彼氏とランチデーってわけ。で、寂しい独り身の私は暇なのでお昼済ませたら図書室直行してるの」
別に他の友達と食べてもいいんだけどさー、なんて言いながらまた本へと視線を移す先輩に、少しの沈黙の後「……そッスか」とどうにか普段通りの声で適当に返事をすると「そうなんスよー」と同じように適当過ぎる言葉が返ってきた。
上げていた顔をゆっくりとまたカウンターに伏せ、静かに、しかしありったけの力を込めて拳を握る。
死にてぇ。
カウンターに思い切り頭を打ち付けてやりたい衝動を、手の平に爪を食い込ませることでなんとか抑え込んだ。今、絶対に顔を上げられない。あの人の顔を見られない。というか誰の顔も見たくない。無論、自分を含めて、だ。
(なんやコレ。うーわ、きっしょ。俺きっしょ。普段一緒に飯食っとるヤツ彼氏にとられたからてお前、何が図書室で火曜の昼といえば俺やねん。勘違いもええとこやろ痛いどころの話ちゃうわこんボケ、ほんま頼むからいっぺん死んでくれ。うわヤバイ期待しとった自分ほんまキモイ。普通にドン引くわ。ほんま死にたい。ありえん痛過ぎるやろ俺。ほんまふざけんのも大概にしとけや何調子こいとんねん)
心の中でありったけの罵声を自分に浴びせるがそれでも足りず、ぐちゃぐちゃした感情のままに毎朝それなりの時間を掛けてセットしている髪をグシャリと崩す。ワックスのせいでだいぶ触り心地が悪い。そんな当たり前のことにも何だかイライラして、くそっ、とまた心の中で悪態をついた。
(つかこれ流石に先輩も悪いんとちゃうか。さっきの俺の雰囲気で普通少しは察するやろ、サラッと流すとことちゃうぞ今の。俺のあの変な間ぁ気付かんかったんか)
自分の格好の悪さに対する苛立ちが別のところにも飛び火して、何だか先輩にまで腹が立ってくる。単なる言い掛かりだということは自覚しているが、どうにも苛立ちを抑えられない。だって俺は最初に示したはずだろう。アンタの名前が知りたかったんだって。なのに。
そうしてしばらくは俺の感情を少しも汲もうとしない先輩にイライラしていたが、ある程度経ったところではあ、と大きく息を吐いて気持ちを切り替えることにした。やめよう。不毛過ぎる。
それに、考えてみれば仕方がないことなのかもしれない。最初に名前が知りたかったというニュアンスのことを言いはしたが、本当にその一度きりだったし、あの時先輩はいきなり俺に声を掛けられたことでかなり動揺していたようだった。俺の言った言葉の意味合いを正確に理解していたかは定かじゃない。
結局は俺のせいか、とまた大きく溜め息を吐いてガタリと椅子から立ち上がる。その音に反応して先輩が顔を少し上げたのが分かったが、構わず無言でカウンターを出た。特に何も言いはしないが俺の動きを目で追っていた先輩に俺も視線を合わせ、先輩の方へと歩き出したところで「どうかしたの?」と先輩は不思議そうに小首を傾げる。
どうかしたか、なんて、俺はもう随分前からとっくにどうかしてるってのに。
「なあ、先輩。先輩、火曜の昼1人なん?」
言いながらガタンッと乱暴に先輩の隣に座る。何もせずに察しろというのが間違いなら、何かしらのアクションを起こすしかない。向こうは今のところ俺に大した興味なんてないんだから、動くしかないのだ、俺が。
「1人なら、俺と飯食いません?俺も当番ある時は1人なんで」
「え?財前くんと?」
「俺いつも学食なんスけど、図書室と学食て遠いやろ?せやから購買でパン買ってこっちで食うとるんスわ」
俺の急な言動に「ええええ……?」と戸惑いを見せる先輩に「なあ、どうなん?」と答えを急かす。どうって、急に言われても……、なんて眉を八の字にする先輩が返答に困っていることは分かりきっていたが、そんなことお構いなしに俺は「先輩」と半ば咎めるように名前を呼んで先輩を更に急かした。ついでに本に添えてある先輩の手をトンと突付つくと、ビクリと一瞬だけ震える。そうだ、意識すればいい。
「な、先輩、俺と食うやんな?」
先輩の顔を覗き込むようにして机に頬杖をついて、急な展開への戸惑いに揺れる瞳をじっと見据える。すると肯定しか受け付けないという俺の雰囲気に圧されるように、先輩はゆっくりと頷いた。
さて、これからどうやってその視線を捉えていこうか。