バレンタインが間近に迫る、金曜日の朝。俺は座った椅子をギシギシと後ろに傾けながら、ふう、と何度目か分からない溜め息を吐いた。
それを聞いて、近くにいるクラスメイトの眉が困ったように下がるのが視界の端に映る。周りの連中からすれば今の俺は相当に鬱陶しい存在だろうことは分かっているが、出てしまうものは仕方がない。
意味もなく開閉を繰り返していた携帯を机の上に放り出し、乱暴な動作で足を組むと頬杖をついて窓の外へと視線を外す。無意味なまでに口から零れようとする溜め息を無理やりに飲み込んで、そっと瞼を下ろした。
(あー……ほんま、調子上がらへん)
間隔の長い瞬きの後、ゆっくりと開いた目に入ってくる世界は当然だが先程と何も変わらず、己の心境のままに薄っすらと濁っていた。もっとも、こんなことで何かが変わるのなら苦労はないが。
数日前から自分を取り巻いて離れようとしない憂鬱にいい加減腹が立ってきて、調子が出ないなりに整えてきた髪をグシャリと荒く掻き上げる。それと同時に、「あの……忍足君」と頭上から遠慮がちに声が掛かった。
「ん……、何や?」
横に立つクラスメイトを仰ぎ見るようにしてそう短く問い掛けながら、いつも通りの薄い笑みを作るのも億劫だ。そんな雰囲気を感じ取ったのか、その女子は「ごめんね、何か、調子悪そうなのに」と眉尻を下げた。
「あのね、2年の先輩が忍足君に用があるみたいで……。あそこの、前のドアのとこにいる人なんだけど」
「……ああ、そういうことな。分かったわ、おおきに」
態々すまんな、とその子に軽く詫びながら席を立ち、一応乱した前髪を手櫛で軽く整えてから教室の戸に寄り添うようにして立っている女生徒へと近付く。
歩み寄ってくる俺を見て恥ずかしそうにしながらも顔を綻ばせるその様は、おそらく傍から見れば可愛いらしく映るんだろう。俺の濁った視界では、よく分からないけれど。
「俺に、何か用ですか?」
用件なんて分かりきっていたが儀礼的にそう問いかければ、一言二言の前置きの後に予想通り手渡される華やかな包み。今年はバレンタインが日曜なだけに、皆この金曜か3日後の月曜に勝負を賭けてくるのだ。
「俺、お返しとかできひんと思いますけど」というこの日限りの常套句と共にそれを受け取り、席に戻るとまた溜め息が零れた。
別に、嬉しくない訳ではない。余程捻くれた性格をしているか、その想いを寄せてくる人間に問題がない限り、人から想われて欠片も嬉しくないという人間もそういないだろう。自分に好感を持ってくれているなら素直に有難いと思う。ただ、その有難いという思いで気分が上向くほど、俺の憂鬱は軽くなかった。
(ほんま、誰や本命て)
数日前のの呟きが、しこりとなって頭の中に残っている。あれからずっと俺はこんな調子なのだ。
と出会ってから、そろそろ1年が経つ。この1年で出会った時に覚えた感覚は徐々に確かなものへと姿を変え、今はもう立派に芽吹いてしまった誤魔化しようのない感情がこの胸の内を占めていた。だというのに、ここにきてあんな発言を聞くことになるなんて。
(他のクラス、学年、いや学校自体ちゃうんかもしれん……。とりあえず、俺やない。テニス部ともちゃう。俺が知っとる奴の中には、絶対おらん)
俺の目で見る限り、という人は実に愛情深い人間だった。友愛にしろ親愛にしろ、そういう情や愛と名のつくものを出来る限り大切に慈しもうとする。そんなだから、もし好きなヤツがいれば接し方で分かると思っていたのだ。マイペースな性格のせいかなかなかポーカーフェイスは上手いが、こと愛情に関してはその表情から察しがつくだろうと。他の誰が分からなくとも、俺ほどに見ていればと。だからこそ、自分なんじゃないかと自惚れることもできないのだが。
ともかく、俺の知るの交友関係の中ではいないはずだ。そこからいくと学校内でと接触があるヤツはとりあえず全員消える。学外の人間か、もしくは校内で関わりのない人間か。
大体『渡すと言えば渡す』て言い方も曖昧で分かりにくいしやな、と頭を悩ませていると、斜め前の空席にトンと荷物が置かれた。その席に荷物を置くはずの人物、といえば。
「……」
「おはよう、侑士君」
「ん、ああ……おはようさん。なんや今日は遅かったな」
今日は第2金曜なので、朝練もない。朝練がなくとも毎朝決まった時間に登校するは俺よりも早く教室に来ていてもいい筈だが、今朝はいつもより遅めの登校だ。しかし、その理由は今し方置かれた荷物によってすぐに分かった。
「朝から結構貰たみたいやなぁ……」
「あ、うん……ちょっとびっくりしちゃった。幼稚舎の頃も女の子に貰うことはあったけど、今年は男の子も何人かくれる子がいて……」
「あー……、逆チョコな」
そういやCMでもやっとったっけなぁ、なんて思いながらいくつかの包みが丁寧に収められた袋を見やって、ふと気付く。
その机の上に置かれた鞄の中身は大きさも色合いもそれぞれ違っていて、貰い物であろうことがすぐに分かる。だが、机の横へと掛けられた薄い桜色のビニールバッグには小分けにされたチョコレートだろう菓子がいくつも入っていた。
「……これ、が持ってきたやつか?」
「ん?あ、うん、そうなの。テニス部の皆にと思って」
はい、侑士君の分、と渡された英字がプリントされた透明なギフトバッグの中には、綺麗に焼き上げられたパウンドケーキが2切れ。
それは、ビニールバッグの中に入ってる他のものと全く同じものだ。違うところといえば、結ばれているリボンの色くらいなもの。明らかに本命ではないことが窺える。分かっていたこととはいえ、キツイ。
「おおきに、ありがとうな。嬉しいわ」
溜め息を欲しがる身体を戒めながら無理に口角を上げて礼を言えば、途端にの顔が曇る。得意なはずの愛想笑いも、こんな状態じゃ上手くいかない。
「侑士君、どうかした?ごめん、気に入らなかったかな。あげない方が良かった?」
「ああ、いや、ちゃうねん。そんなんとちゃう。ちゃうから、ほんま」
に貰えたんはほんまに嬉しいし、と繰り返しても、の表情は晴れない。それはそうだ、俺の愛想笑いはまだいつもの調子を取り戻していない。そもそも、“愛想笑い”という時点でまずいのだ。はそういうことに敏いから、そんなもの簡単に見抜いてしまう。
どうしたものかと考えた末、俺は無理にでも話を逸らすべく「そういや、本命やるとか言うてへんかったっけ?」なんて嘯いた。己の心情を綺麗に押し隠して、本当になんでもないような素振りで。
「本命?……ああ、それは別に、わざわざ学校で渡さなくてもいいしね」
「え、なに、当日に会うっちゅうこと?」
この当然のことを言うようなの口振り。これは既に告白とかそういう次元じゃなく、渡すのが当たり前の関係だとかそういうことか。
調子が悪いだとかそんな問題を通り越して本気で沈みかけた時、の放った「会うっていうか……今年はバレンタインが日曜日だし、お互い家にいるだろうからその時に」という言葉に加速していく悪い想像が一瞬停止する。ちょっと待て、何かがおかしい。
「……、ちょお聞いてもええかな」
「え?何を?」
「本命て、具体的には誰んこと言うてるん?」
「具体的にって……若、だけど?」
「…………あー……ちょお、待ったって。……それ、確か、自分の弟の名前やんな?」
そうだけど……、とそれがどうしたとでも言うような不思議そうな顔で俺を見るに、俺は思いっきり脱力した。
紛らわしい。紛らわし過ぎる。何故肉親に対するチョコを本命と表現するのか。弟を過度なまでに大事に扱っているのは本人から漏れ聞く話で知ってはいたが、そこまでブラコンだったとは。
「あの、侑士君、本当に大丈夫?」
ぐったりと机に突っ伏すと、が控えめに声を掛けてくる。少しだけ顔を上げれば、は「調子悪いの?」と心配そうに眉を寄せた。
伏せていたせいで乱れてしまった俺の前髪をそっと、の指先が静かに整えていく。額に触れるか触れないかの微かな接触がくすぐったくて思わず少し笑うと、の顔もふと綻んだ。
「……、」
「うん?」
「ありがとうな、チョコ。……嬉しいよ、ほんまに」
跡部や岳人達に渡すものと、何ら変わりない義理のチョコ。それでも今まで渡された他のどんな本命チョコよりも、のそれの方がずっと価値がある。
だらしなく机に突っ伏したままクリアになった視界でを見上げて、緩く笑いながらそう礼を言い直せばはゆっくりと目を伏せて微笑んだ。
この友愛の証を貰うことができるのだって、本当に限られた人間だけなのだ。
俺の手の中に納まっているのチョコをチラチラと羨ましげに見やる男共を尻目に、今はこの下らない優越に浸っておこう。
いつかは件の弟に対しても、この優越を感じられる時がくることを祈って。
明らかに義理。でも嬉しい。